「火の柱、雲の柱」

1999年 8月15日

出エジプト記13章17~22節

辻中徹也牧師

 

  • 今日のテキストはイスラエルの民がエジプトを脱出してまもなくのことを記しています。神は民を荒れ野の道に迂回させられましたが、昼は雲の柱、夜は火の柱が民を導きました。イスラエルの旅に神が伴われたのです。その象徴が雲の柱であり火の柱であります。

  • エジプトにおいてイスラエルは人が人を支配し苦しめる中で、神に救いを叫び求める者として生きていました。その民が神の顧みを受け約束の地へ上るときがやってきました。人が人を支配する世界から、人が神の支配を生きる世界へ、人間による虐待の世界から、神の祝福の世界へと民は歩みだしました。そこに神が共に居られたのです。

  • 敗戦から55年目を迎えました。ある雑誌の「いつか来た道」という特集に、沖縄の伊江島で反戦地主のリーダーとして活動してこられた阿波根昌鴻さんのエッセイが載っていました。戦前「平和のために戦え」と教えられたが、今は「平和とは、戦わないで仲良くすることだ」と確信している。軍備は国を滅ぼすものであるという過去の歴史に学ばなければならない。一度失った命や自然、生活や文化は、もう取り戻すことができない。国民・人類は深く反省し、戦争を起こした人間は責任を最期までとるべきだ。しかし、現実は、また有無をいわせず、戦争の道を歩まされている。「日の丸」はすべてを焼き尽くす恐ろしい火だった。沖縄を焼き尽くし、敵であった多くの星の旗とともに私たちの土地を奪っている。人間は本当のこと学ばねば、いくつになっても無知のままだ。戦前は「命は鴻毛よりも軽し」と教えられたが、戦後は「命は宝である」と知った。人間は金や物より心豊かに安心して暮らせることが何よりである。阿波根さんはこのように記されています。

  • 神の愛と配慮が、常に私たちの歩みに伴い、先頭を離れないことを覚えたいと思います。主イエスの十字架と復活こそ、今を歩む者に与えられている火の柱、雲の柱です。「いつか来た道」であるからこそ、神の愛の現実を生きることへ私たちは招かれています。

「それ自体汚れたものはない」

1999年 8月 8日

ローマの信徒への手紙14章13~15章 3節

上島一高牧師

 

 教会が出来たばかりの頃、二つのグループの対立がありました。宗教的な旧い戒めを守るために、新しい習慣について認めることが出来ず、これを糾弾してしまう者(弱い者)と、信仰によって、これらのタブーから自由になっているもののその自由さを不自由な人々に対して強烈にデモンストレーションした者(強い者)です。  パウロは、本当の強さは、自由でないなあと思われる人々がこだわっていることの表面的姿にとらわれ軽く見たりするのでなく、こだわっている先にあるもの根っこにある大切なもののゆえに、彼らを尊敬する所に現れると言います。彼らは「源との生きたつながりあればこそ」そのように行うのです。源であるキリストは「御自分の満足をお求めにならず」、かえって苦難を忍ばれた方でした。この「キリストに仕えよ」とパウロは呼びかけます。呼びかけに応え、キリストに仕える姿の中に、本当の自由や本当の優しさはあります。  私は、5月より、神さまの導きで、担任教師不在の厚別教会の代務牧師を仰せつかっています。この間、肝臓ガンと診断された一人の男性の病床に、危篤の連絡を受けてかけつけ、聖餐式を執行しました。  厚別教会の聖餐式は、クリスチャンのみが与るのですが、パンと杯の準備をしてくださった教会員の山崎夫妻は、未信者のご家族のことを考えて、伝統が破られてもいいのではないかと覚悟されたそうです。私は私で、悩みつつ、伝統を守ることにしました。そのような思いを互いに抱く中で、まさに、「キリストに仕える」中で営まれた聖餐式に、神は確かに臨在されました。やり方云々を超えて、危篤の兄弟と食卓を囲む人々の間に恵みが与えられたのです。いま、私は、新たな感謝の思いを与えられています。

「愛を知らせて」

1999年 7月18日

コロサイの信徒への手紙1:3~8

辻中徹也牧師

 

  • コロサイの教会はパウロの協力者エパフロイによって福音を知り、教会の基礎が据え られた。エパフロイはコロサイの出身で、ラオディキア、ヒエラポリスの教会ともつな がりがあった。エパフロイはパウロ一行にコロサイの様子を「霊に基づく愛を持って歩 んでいる」と知らせた。そこにパウロ一行の喜びと神への感謝が生まれた。

  • その背景には、コロサイがある宗教思想に影響される恐れがあったため、喜びと感謝 は一層深いものとなった。パウロはその宗教思想への警戒をも記している。「人間の言 い伝えに過ぎない哲学」「むなしいだまし事」また「何の価値も無く、肉の欲望を満足 させるだけ」と記し、「世を支配する霊に従うこと」だと手厳しい。しかし、コロサイ の教会はそれとは一線を画し、信仰と愛の実践、希望に生かされる歩みをしていた。

  • 95年の「信徒の友」のコラムにオウム真理教を反面教師にした教会形成のポイント が記されていた。①広い関心、開かれた群れ。②あらゆる年代、世代が集う群れ。③超 能力志向でなく人格の重さを受け入れる群れ。④支配力、権力欲、独占欲ではなく仕え ていくことを第一義とする群れ。⑤マインドコントロールされない、セルフコントロー ルできる人が集う群れ。⑥全体主義的傾向を阻止できる、民主的な群れ。私たちはキリ ストを希望とし、キリストの勝利によってあがなわれ、解き放たれた群れである。

  • 新ガイドライン関連法案などを成立させた今の日本という国家は巨大なオウムといえ ないだろうか。キリストという「天に蓄えられた希望」を希望とし、こんな時代である からこそ福音の実を結び、成長していくことを祈り求めたい。キリストを通して与えら れる神の息吹である聖霊によって、愛を知らせていく群れとなることへ招かれている。

「聖書の主題」

1999年7月11日

創世記 第12章1~3節

村川政勝牧師(北見望が丘教会)

 

モーセ五書の編集者の一人、Jという人は、イスラエルの使命を土地取得という課題か ら他民族への祝福という宣教によってとらえ直した。十字架の救いを得ることだけが私 たちの目的ではないように、共に他者を祝福するかどうかという課題がある。 民数記25章のバアル・ペオルでのイスラエルの背信、22~24章のバラムの託宣で もわかるように、イスラエルは大いなる国民になっている。イスラエルが大いなる国民 になったことの意味は、彼らが与えられた使命を果たしうるかどうかにかかっている。 祝福を諸民族に及ぼすこと。この使命を果たすかどうかそれがイスラエルの課題。現代 の教会の課題でもある。 ダビデ、ソロモンの時代は栄光の時代である。しかしJは、その時代を批判的に見る。 栄光の時代だから、人々は得意になっているけれども、そこでかえって人間の脆さを見 ている。それが時代への批判になっている。 祝福を及ぼす使命は、創世記13章では異民族との住み分けとして描かれている。18 ~19章では、アブラハムによるソドムのとりなしに示されている。26章では、イサクがペリシテ人と平和の契約を結ぶことによって祝福を及ぼす使命が果たされている。 37章から始まる「ヨセフ物語」も、相手を祝福してそれが自分の祝福になることの実 現が記されている。 礼拝の祝祷は終わりの合図ではない。
礼拝において主から祝福をいただいた者が、世界 を祝福するために派遣されるのである。

「新しい人―――主が敵意を滅ぼしたから」

1999年 7月4日

エフェソ 2章11〜22節

辻中明子牧師

 

 最近のニュースを耳にすると、私達の国が戦争への流れに向かって歩 んでいるように思われる。かつての戦争を体験した方にとっては、そ うでない者以上に敏感に流れを受けとめているのではないだろうか。 この問いかけを互いに一人が一人にしていきたい。 パウロは、エフェソ2:14以下で「キリストは平和である」と断言 している。平和を実現させるのはキリストだけであり、私達が努力し て、なんとか築き上げることが可能なものではないことも語っている。 平和をはばむものは2つの間にある「敵意」であり、この敵意を私達 は実に多くの関係の間で持っているからである。 しかし、イエスはすでに十字架で、この敵意を滅ぽされたんだとパウ ロは語る。つまり、イエス御自身が私達の敵意を引き受け、背負い、 イエス御自身が敵意そのものになって十字架で滅ぼされた。だから十 字架であの時死んだのは、私達の敵意だと。 だからもし、私達が以前として敵意を持ち合わせているとしたら、何 と無意味で必要の無いものに支配され、固執し、振り回されているの だろうか。 こんな現実を抱えつつ、イエス御自身が示してくださる新しい人の世 界へ、不完全で、相変わらずオロオロしながらも近づく歩みをしてい きたい。

「執り成してくださる」

1999年 6月13日

ローマの信徒への手紙 8章26~30節

辻中徹也牧師

 

  • 執り成す者の想いは、身を引き裂くような「うめき」を伴うものです。執り成しのうめきが忘れられ響かない世界は、悪魔の棲む無感覚で冷酷な世界ではないでしょうか。

  • 私たちは弱い。しかし「聖霊は弱い私たちを助けてくださいます。」私たちは、しばしば「どう祈るべきか知りません。」しかし「〝霊〟自らが、言葉に表せないうめきを持って執り成してくださるのです。」

  • 神は「人を見抜く方」です。そこに神の愛を見出すことができます。人間は「神の子とされること、体の贖われることを心の中でうめきながら待ち望んでいます。」霊はそのうめきを共に担うとパウロは言います。霊は、誰よりも私たちの心を知っているのです。

    霊の執り成しとは霊の祈りとも言えます。祈りのないところに真の執り成しはありません。

  • 欠点の多い、人に躓きを与え続ける者であっても、その者を神は召し「聖なる者たち」と呼んでくださいます。神との関わりに生かされる者が「聖なる者」です。私たちのうめきをご存じである神に、なおのこと祈っていく者でありたいと思います。聖霊はいつも私たちを執り成してくださるのです。

「共に喜ぶ」

1999年 6月 6日

フィリピの信徒への手紙 第2章12~18節

辻中徹也牧師

 

  • 新ガイドライン関連法の成立、通信傍聴法を含む組織的暴力犯罪対策3法の衆議院通過、「日の丸・君が代」の法制化と、日本は戦争のできる国家になろうとしている。

  • ジャーナリストの辺見庸さんは戦場にも行かれた人で、見たり、聞いたり、触れたり、嗅いだりした身体的な戦争イメージを持っておられ、戦争イメージの欠如された中での議論は危険だと主張されている。そしてもう一つ、今の日本は、全員が自覚なき共犯者で、無責任が絡まり合い、発酵し合う「ヌエのような全体主義」にのみこまれ議論が死んでいる、と書いている。不気味で曖昧な全体主義に呑み込まれないしっかりした「個」を鍛え、命がけで反対していくしかない、と言う。

  • 今朝のテキストでパウロはフィリピの信徒に「従順」をすすめている。神に対し従順であろうとするとき、神は私たちの内に働き、御心のまま望ませ、行わさせてくださる。主イエス・キリストにも使徒パウロにも「従順」という道が開かれていたように、私たちにも開かれている。獄中にあり殉教さえ見据えながらパウロは「共に喜ぶ」世界へ私たちを招いている。神に従順に生きるとき私たちは、暗闇のような世で「星のように輝き」人々に永遠の命を与える「命の言葉をしっかりと保つ」ものとされる。そこに喜びがある。

  • 不気味で曖昧な全体主義に呑み込まれない「個」として生きたモデルを、私たちは主イエス・キリストと使徒パウロの中に示されている。神への従順を求めて生きるとき、私たちは見えない牢獄に取り囲まれたような状況の中でも、「個」を鍛え、命がけで反対していくことを共に喜べる世界を歩むことができる。その招きに応えて生きて行きたい。

「あなたがたは力を受ける」

1999年5月23日

使徒言行録 第1章1~11節

辻中徹也牧師

 

  • 疲れたとき、不規則にだらだらと過ごすことにしています。心の規則はだらだら過ごしているあいだにリズムを整えていくもののようです。誰しも「安息日」が必要です。本当の「安息」は、神を礼拝し、「罪人」である自分を知り、神を知ることにあります。

  • ゆっくり、気軽におしゃべりすることが大事だと感じています。だらだらしているように思えても、その中に発見があり、大きな役割を果たす「ことば」との出会いがあります。ペンテコステの出来事も「ことば」と関係しています。「神の偉大な業」という一つのことが多種多様な聞く人が慣れ親しんだ故郷のことばで自由に語られたのです。

  • 「神の偉大な業」とは、主イエスの十字架と復活によって、神の愛と赦しが示されたと言うことです。聖霊が降ったとき弟子たちはそのことを「私」に起こった福音として理解し、語らずにはおれない力を与えられたのです。

  • バベルの塔の物語は、同じことばを使い、分かり合えた世界が、神をないがしろにしたり神に成り変わったため、神によってことばが混乱させられたことを伝えています。教会を建てる力の源は、人間のひとりよがりになりがちな危うい力ではなく、聖霊の働きによるのです。たくさんの課題の前にたじろぎ、力んでしまう私たちですが、本当の「安息」に身を置いて、聖霊の働きを祈り求めて行きたいものです。

「世の終わりまで共にいる」

1999年5月16日

マタイによる福音書第28章16~20節

辻中徹也牧師

 

  • 11人の弟子はガリラヤの山で復活の主にひれ伏したが、疑う者もいたとあります。「山」はイエスがサタンに試みられ、変貌し、教えを説かれた場所です。言わば「教会」であったのですが、疑う者もいたというのはマタイの教会の現実であったようです。他の福音書が復活の主の顕現をいくつも記しているのに対して、マタイは主の言葉を記しています。主の言葉に従うとき疑いは晴らされていくのです。

  • 死を見つめることによって、はじめて、生を見つめて生きることができます。イエスの生を知ることは十字架の死を見つめるところから始まると言ってよいのかも知れません。イエスは政治犯、冒涜者、革命家として死んだとも言えます。しかし、そこには弟子たちの裏切りがありました。裏切った者にとって十字架は贖罪(罪の赦し)となりました。イエスの復活は愛の復活であり赦しの実現であったからです。

  • 「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」という宣言に支えられて、「すべての民をわたしの弟子にしなさい」「父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、命じておいたことすべてを守るように教えなさい」と私たちはこの世界に遣わされています。

  • 私たちが本当に生きることを願うならば、キリストと共に死ぬことを求められるのです。キリストと共に死ぬことによって、私たちははじめて真に生きること、つまり、キリストと共に生きることができるのです。

「神のラッパが鳴り響くとき」

1999年5月9日

テサロニケⅠ 4章13~18節

辻中徹也牧師

 

  • 今日は母の日ですが、教会の父といってもいい田川正悦兄が7日(金)未明に天に召されました。正悦さんは戦後まもなく洗礼を受けておられます。数年前に大腸がんの手術をされ、しばらく順調でしたが、2年前に肺がんにかかられ9時間の大手術をも受けられました。頸椎(けいつい)に転移し治療を受けられていましたが肺炎にかかられ、ついに神のみもとへ召されました。人間の生は死と向き合うときにその意味が鮮明にされるものだと思います。ウイスキーの原酒が樽の中で熟成していくように、死を見つめるときに生もまた熟成していくのでしょう。

  • 原崎百子さんもまた1978年8月、肺がんによって夫と4人の子どもを残し43歳でなくなられました。著書「わが涙よわが歌となれ」は、なくなる1月半前、夫から病名を告げられた後、書き続けられた日記とテープをもとに編集された遺稿集です。「これまでの一切は、これから始まる<死>までのよい準備期間であった」と記されています。彼女が残された言葉は、人間が人間であるがゆえに持っている弱さや限界をあるがままにみつめつつ、その人間を越えた神(いのちの源)に自己をゆだねて生きるとき、そこから無限の恵み、力を受けて、限りあるいのちを輝かせて生きうることを教えてくれます。

  • パウロは、こわれやすく、もろい器である人間が、その器の中に盛られた宝-測り知れない神の力-によって、こわれゆく器を越えて生かしめ、いかなる困難に出会うとも、再び立ち上がる力を与えると語っています。神のラッパの鳴り響くとき、私たちがどう生きてきたか、どう生きているかが明らかになります。それがいつなのか私たちには知らされていません。しかし、そのとき私たちにキリストが再び臨まれるのです。そして、すでにキリストに結ばれて死んだ人たちが、キリストと結ばれていたがゆえに永遠のいのちを与えられて今も生かされていることを知らされるのです。

  • 百子さんは「愛する子どもたちへ」のなかで「一人一人をかけがえのないものとして、慈しんで下さっている神様の愛を信じて欲しい。たとい、お母さんが天に召されても、それでもあなたがたが信じ続けられるように。悲しみを乗り越えて生きていけるように。覚えて欲しい、私の愛は小さな支流、神さまの愛こそが本流であると。」と記されています。正悦さんが示して下さった愛もまた神の愛という本流から流れ出た支流であります。私たちもその歩みに倣って生きる者とならせていただきたいと祈りましょう。