1999年11月14日
ローマの信徒への手紙 第4章13~25節
辻中徹也牧師
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アブラハムは祝福の源となる約束を神から受けました。それは私たちの教会に対してもなされている約束です。私達は祝福の源として歩んでいるか問われています。また、子のいなかったアブラハムに、神は星の数のほどの子孫を与えると約束されれました。神は神の民を選ばれました。私達の教会にも仲間を与えて下さるに違いありません。
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パウロはアブラハムの信仰による義を取り上げて、自分たちも行いという功績や条件で義とされるのでなく信仰によって義とされることを自分の確信する福音として記しています。神と神が甦らされたイエスを主と信じるとき、わたしたちは神との真実な関係に生かされ、ありのままを良しとされるのです。
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ひろさちや氏は日本人の宗教観は、御利益宗教でアブナイと批判しています。信仰というコインを入れれば缶コーヒーのように救いが与えられるという論理は少し違うのです。信仰のゆえに楽になったり救われることはもちろんありますが、信仰のゆえに苦しむこともあるのです。信仰がなければ耐えられない歩みを引き受けるところに救いがあります。
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自分の信仰というコインで神を操るのではなく、神の迫りを受けて自分を神の道具として明け渡していく中に、アブラハムの信仰があり、主イエスの示された救いがあります。私達の群にも神が神の民を増し加えて下さること、私達が神の祝福の源として生きることを神は約束されています。約束の実現を信じ、待ち望んで共に歩んでまいりましょう。