「自分の命を献げる」

2000年2月27日

マタイによる福音書 第20章20~28節

辻中徹也牧師

 

  • 先週、電話機の設備を新しくすることや、電話回線をISDNに変える事等を考えていた。
    自分のパソコンの使い勝手のことなども絡んできて、それらのことで頭が一杯になった。
    他のことも手につかない状態になった原因は自分の物欲だと気づいた。最新の多機能の物が欲しいという欲、まだ使える物に対する執着との間を行ったり来たりしていた。
  • 「勿体ないは超トレンディー」という文書に出会って「これだ!」と思った。「勿体ない」は「体をなしていない」と言う意味で本来その物が持っている価値や使われるべき道が活かされていないという意味だとあった。それは「ケチる」とは全く違う。「ケチる」は出し惜しみすることだが、「勿体ながる」は本来の能力を引き出そうとすることなのだ。
  • このテキストにはイエスの弟子のヨハネとヤコブと彼らの母親が登場する。母親はイエスに「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、あなたの右に、もう一人はあなたの左に座れるとおっしゃって下さい。」と願った。それを聞いていた他の弟子は腹を立てた。
    一同に主イエスは言われた。「偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」
  • 他者をコントロールしたい心、権力を振るいたいという欲望は、多かれ少なかれ、また形を変えて私たちの中にある。主イエスはそのような捉われから一歩踏み出す生き方を、他者に仕えるという姿で示して下さった。他者に仕えるということは、他者を活かすこと、本来の持ち味を引き出すことではないだろうか。
  • 私たちには、主イエスがゲッセマネで血の汗を滴らせてお受けになった十字架と言う「杯」が与えられている。主イエスは「多くの人の身代金として自分の命を献げるために」
    来られた。主イエスは欲望を突破する生き方によって、この私を神の愛の世界に生きることへ取り戻して下さった。神の愛を受けて生かされている自分を、勿体ないことをしていないだろうか。互いに仕え合い、活かし合う歩みに私たちは招かれている。全ての被造物が輝いた場所と役割を与えられることを喜び大切にして行こう。

「パン五つと魚二匹」

2000年2月20日

ヨハネによる福音書 第6章1~12節

 辻中徹也牧師

 

  • 主イエスによって五千人に食べ物が与えられた。女性や子供を含め仮に2万人の人がいたとすれば、少年から差し出されたパンと魚はあまりにも小さすぎたはずだ。しかし、その小さなものが人々を一つにし、満腹を与えたのがこの出来事であった。大阪での万博で「月の石」を見た。ちっぽけな石であったが何千万人かの人々がこれを見て感嘆した。「月の石」でさえそうであったようにイエスが祝して裂き分かち合われた物が人々を満たした。

  • ヨハネによる福音書の第6章に貫かれているテーマは「命のパン」である。命のパンの与え手はイエスである。また同時にイエスは命のパンそのものであった。イエスが裂いたパンは人々を満腹させ、残ったパン屑が12の籠に一杯になったと記されている。12はイスラエル12部族を象徴しており、主イエスというパンによって新しいイスラエルが満たされたことを象徴している。人々が受けたパンは主イエスが十字架の上に裂かれたイエスの体であり、流された血である。

  • イエスは群集を見て「どこでパンを買えばよいだろう」と弟子フィリポに問われたが、これは第6章の中で最も重要な問いである。「私は命のパンである」という言葉がその問いの答えである。51~59節には、聖餐と深く関係する言葉でこの問いへの答えが記されている。「このパンを食べるものは永遠に生きる」。私たちは主イエスの十字架の贖いによって永遠の命を与えられている。

  • 私の小ささが、十字架を負われた主イエスの小ささと結び合うときに「愛」という具体的な出来事が私に迫ってくる。人々はその「愛」にあずかって「満腹」さえ与えられていく。互いの小ささが、主イエスの小ささと出会い、結び合わされることを願い、互いに祈り合う歩みに招かれている。私たちの祈り合いの背後に、差し出された小ささを神に感謝し祝福される主イエスの命がけの祈りがあることを覚え、その招きに従って行こう。

「屋根をはいで」

2000年2月13日

マルコによる福音書 第2章1~12節

辻中徹也牧師

 

  • 屋根にのぼるということで思い出すのはビートルズのドキュメント映画「Let It Be」。中学2年のころ、影響を受け、友人の家の屋上に楽器を運び音を出した。わくわくする宝物のような想い出だ。気の合う仲間とわくわくした経験を持つ方、今現在、仲間と熱くなっている方々もおられるだろう。

  • この物語も5人の仲間が屋根に登る。一人は床に寝かされた中風の者で仲間4人が運んできた。イエスが語られているその家には群集がつめかけ立錐の余地もない。彼らは屋根に上り、屋根をはぎ、イエスの前に床についた仲間を吊り降ろした。イエスは彼らの信仰を見た。イエスへの信頼、もう大丈夫という安堵、わくわくする喜びをイエスは見て取り、彼らが持つの信頼関係、友情、愛情を受け止められたに違いない。

  • この物語は奇跡物語に論争物語がサンドイッチのようにはさまれている。「子よ、あなたの罪は赦される」とイエスは宣言された。律法学者たちは神お一人のほかは罪を赦すことができないとつぶやき、イエスの宣言は神の冒涜だと考えた。イエスは「中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』というのと、どちらが易しいか」と問われ、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と語り、奇跡を起こされた。

  • この物語は罪の規定を絶対的な前提とする発想を批判している。「罪」という理念によって人間をはかるような人間理解を超えた存在として主イエスを伝えている。そして、それがイエスの独自性といことでなく、人間誰しもが持つ本質なのである。屋根をはいだ5人の仲間のうちに「罪」の規定を超えて生きる力を見出すことができる。4人に支えられた一人も、一人を支えた4人も主イエスの前に出て神の出来事に出会った。島松伝道所に集う一人が隣り人と支え合うことは小さなことかもしれないが、その小ささを主イエスは祝し大きな恵みとして下さる。私たちが支え合うことが、地区、教区、全国の教会の希望を担うこととして主によって用いられている。弱さを絆にした歩みに私たちは招かれている。

「正しい人を招くためではなく」

2000年1 月30日

マルコによる福音書 第2章13~17節

辻中徹也牧師

 

  • 「正しい人を招くためではなく」という説教題はイエスの言葉から取りました。ここでイエスが言う「正しい人」とはどんな人でしょうか。この物語には二つのグループが登場します。「全民衆」と「ファリサイ派の律法学者」です。イエスが共に生きようとしたのが前者で、対立したのが後者です。律法を守ること、それがファリサイ派の基準でした。彼らにとって神に招かれるのは、そういう「正しい人」でした。イエスがここで「正しい人」と言われるのは彼らの基準による「正しい人」です。
  • 全民衆の一人の例として徴税人レビがイエスに招かれ、イエスに従いました。そしてレビの家でイエスは食卓を共に囲みました。律法学者たちにとってはとんでもない事件です。「どうして徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と彼らは非難します。それに対して主イエスは「私がきたのは正しい人を招くためでではなく、罪人を招くためである」と言われたのです。ファリサイ派の価値観・基準・ものさしをひっくりかえし問い直しておられるのです。そして罪人を排除して成り立つ「正しい人」の立場に組せず、「罪人」と積極的に連帯する生き方を主イエスは身をもって示しておられます。
  • 新々宗教の大きな特徴は、ご利益主教であることだと言われます。キリスト教が本物の宗教として連綿と行きつづけているのは、ご利益と言うちっぽけなものを超えて、私が、家族が、隣り人が神に愛されているという大きな恵みを与えられているからです。それと同時に、一歩進んで愛するということがあったからです。沖縄がそうであるように、阪神大震災も、アイヌの人々のことも、教会の外の「社会問題」なのではなく、具体的に苦しみ、泣き、ときには喜び、笑う一人ひとりとの出会いが、私の問題と繋がっていく中で、主イエスの招きを聞き取る出会いとなるのです。徴税人レビが全民衆の一人として主イエスと出会い、愛されている自分、愛する自分と出会っていったように、問題の渦中で生きる一人との出会いが自分との出会い主イエスとの出会いへと豊かに広がっていくのです。
  • 「語り合おう」、ということの次に「出会おう」ということが私たちのスローガンになればと願います。私が「愛する」という世界を生きるために、そのことによって豊かにされるために私たち自身が「出会い」を必要としています。硬直したものさしで閉ざされた「正しい人」に近づこうとするのでなく、開かれた出会いよって愛を生きることへ主イエスは「罪人」であるままの私を招いていてくださいます。

「ぶどう酒に変わった水」

2000年1月23日

ヨハネによる福音書 第2章1~11節

辻中徹也牧師

 

  • 京都に阿闍梨(あじゃり)餅というおいしいお菓子がある。阿闍梨とは修行僧のことらしい。(辞典には弟子の行いを正し、その模範となる師とある)。修行が形から入るように、形から入ることによって意味がわかる事柄がある。先日の聖書輪読会でそういう話題が出た。そのとっかかりは聖餐式のスタイルに関することだった。

  • 礼拝に集うすべての者が与かれる聖餐式を私たちは行っているが、説明がないと戸惑うという意見があった。教会によっては聖餐式は受洗者に限る上、聖餐に何回与かったかが総会出席の資格となるそうだ。自分の歩みを振り返ると、受洗者に限らずすべての者が与かれる聖餐式を体験したとき、型とか枠というものから自由になって、無条件に与えらている神の恵みをリアルに感じることができたことを想い起こす。オープンかクローズドかどちらが正しいかと言う議論もあるが、それよりも大事なことは語り合う中でお互いの違いを違いとして知り、何を共有することが大切なことなのか一緒に発見していくことではないだろうか。

  • 新しい年を迎えて、インフルエンザて数日寝込んだ。これからの教会の歩みを考えてみるのに良い機会だった。たくさんの課題が私たちにはある。障がい者と共に、子どもと共に、地域と共にという宣教に島松らしく取り組むにはどういう道があるか。質に対して数ということで考えれば、どのような伝道をすれば仲間が増し加えられるか。子どもたちを育てていくにはどのようなことができるか。全国募金の今の状況にこれからどう対応していくか。こんな課題についても語り合い、それぞれの違いを知り、しかし何を共有することが大切か発見していく必要があると思う。

  • 今日のテキストは婚礼の席で足りなくなったぶどう酒を、イエスが水をぶどう酒に変えることによって与えたと言う奇跡物語が記されている。イエスに命じられた者は6つの水がめに「縁まで水を満たした」。できることを精一杯したところにイエスが働かれ奇跡が起こった。私たちは自力で水をぶどう酒に変えようと力んだり、その力がないことを嘆いたりする。しかし、与えられているものを精一杯出し合ったところに、イエスの力が働いて、水はぶどう酒に変わる。そんな出来事に出会うように、招かれている。「縁まで水を満たす」ことをなし、イエスの力が働くことに委ねていきたい。

「わたしの子を呼び出した」

2000年 1月2日

マタイによる福音書 第2章13~15節

辻中徹也牧師

 

  • ヘロデ王は残酷な支配者として歴史に残っている。彼はイドマヤの出身であった。イドマヤは紀元前130年ごろユダヤに編入され、宗教的にもユダヤ教に編入された。ヘロデは半分異邦人であり、純粋なユダヤ人からは蔑まれる存在であった。ハスモン朝の王女マリヤムネ1世と結婚し王権を継ぐ正当性を得ようとしたが、暗殺の陰謀に悩まされ、猜疑心に苦しめられて人を殺し続けた。「ヘロデの息子であるよりも豚のほうが安全だ」と言われるほど王位を窺う近親者の殺害も辞さなかった。

  • 私達は自分はヘロデのような人間ではないと思いたい。しかし、自分にとって代わる王の誕生に不安を抱いたのは彼だけでなくエルサレムの者が皆そうだった。自力でやってきて、なんとか生活の安定を手に入れた者にとっては、変化への不安は普通なのかもしれない。しかし、その普通の不安を打ち消すことが過ちを生み、過ちが雪だるまのように膨れ上がってとんでもない結果となる。ナチスのユダヤ人虐殺、日本のアジア諸国への侵略と虐殺、日本が受けた原爆など、人間の過ちの結果に愕然としてきたのが20世紀であった。

  • マタイ2章は「地上の王ヘロデ」と「全人類の王イエス」との対決と言うテーマで貫かれている。イエスは母に抱かれ、父に守られなければ生きていけない幼子であった。弱さ、小ささ、無力さのなかで両親の信仰と愛に身をゆだねる者としてそこに居た。それはなんと豊かで、救いを示すことだろう。弱さは「共に」という世界を生む。小ささは「守られ、守る」という意味と尊さを生む。無力であることは自分の自信に執着する愚かさや捕らわれからの「自由」をもたらす。

  • 自分への執着、自分の自信、自分の安定に捕らわれる私たちの姿は、小さな「地上の王」の姿であり、ヘロデに組する姿である。地上の王である私に、神は「全人類の王」イエスを呼び出してくださった。あの、人が人を支配するエジプトから、今度は私のエジプトへ神はイエスを呼び出してくださった。そのようにして、私の叫び、うめき、孤独がこだまする私のエジプトから、神は私を呼び出される方である。そして、神はこの私をも、隣り人のエジプトへと私を呼び出し、遣わされる。「私は、エジプトから私の子を呼び出した。」新しい年、この神の言葉がこの私においても実現することを信じ、祈りつつ歩んでいこう。

「その星を見て」

1999年12月26日

マタイによる福音書 第2章1~12節

辻中徹也牧師

 

  • 今朝の個所には東方の三人の博士たちが星に導かれ最初のクリスマスに救い主を拝んだことが記されている。彼らはヘロデ王に会見し「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか?」と尋ねた。ヘロデ王は不安を抱いた。自分に代わる王の出現に不安を抱かずにおれなかった。エルサレムの人々もまた不安を抱いたとある。

  • マタイはユダヤ人の不信仰と異邦人である博士たちの信仰のコントラストを際立たせてこの物語を書いている。新しい王の誕生が不安となり、その王を殺そうと企てさえする人間の現実の一面が記されている。一方、自分の出てきたところに留まっていれば生活も安定し、幸福と快楽を満喫できた博士たちは、富も時間も命さえも惜しまず、自分の宗教にもとらわれず、真実な永遠の救いを求めて行動を起こした。これも人間に開かれた道だ。

  • 東方の博士たちの物語にキリスト教会はさまざまな解釈をほどこしてきた。その中にその捧げものを通してキリストが誰であるかを伝えているものがある。黄金はキリストが王であることを示す。乳香はキリストが祭司であることを示す。そして没薬はキリストが死者であることを示す。キリストは十字架の死に至るまで神に従順であった。私たちも死に向き合うとき不安とむなしさと恐怖を抱く。
    しかし、そこにはキリストが共におられる。キリストを知るということは死を超えた復活の希望を知るということである。

  • 「人間は死んだら星になるんや」という祖母の言葉を、あるとき思い出し、ほんとうだとうなづいたことがある。死んでいった人が死と向き合いながら希望をもち、精一杯生きた。その姿が、夜空のような暗闇の現実を星のように照らしてくれることがある。気がめいりそうなときその星に導かれ、歩むべき道へ導かれ、目指すべきゴールへと励まされて歩き出すことがある。真実な王として、祭司として、死者として生き抜き死んでいった主イエスのきらめく星が、多くの死者の星を伴って、私達すべての者に与えられている。やがて自分も誰かの心の闇を照らす星とされるときが来る。新年を精一杯生きていこう。 

「お言葉どおり」

1999年12月19日

ルカによる福音書第1章26~37節

辻中徹也牧師

 

  • 1999年は政治・経済・環境・教育そして宗教の分野にも暗い影がさした年でした。私たちの教会には光が与えられました。中高生が与えられ、二人の幼子が与えられました。一人ひとりがその人らしくあることが私たちの宣教であり、一人ひとりが宣教の主体です。この光を、影が濃くなる世界に掲げていきたいと願います。

  • イエスの誕生の告知を受けたマリアは「まだ男の人を知りませんのに」と答えました。生まれてくる神の子がヨセフの血統に属することを超えた神の聖霊による子であり、民族的な狭い権威や価値を超えていくことに著者は意味を見出しています。

  • 「主があなたと共におられる」ということは、いかなる人間の願望や期待や思惑をも超えて神の救いが実現することを示します。「お言葉どおりこの身になりますように」というマリアの決断は限界を持つ一切の権威や価値を超えて働く、神による権威、神による価値によって生かされ、生き抜くことを意味しました。

  • 星野富弘さんが頚椎を損傷し手足の自由を奪われたとき、再び生きる力を得たのは、ある墓に刻まれた聖句を思い起こしたからです。「私のもとへ来なさい。休ませてあげよう」との言葉は、幼子を失ったキリスト者である両親が墓に刻んだものでした。星野さんの口に筆をとらせ、絵や詩を描く力を与えた信仰の原点に、生まれてまもなく召された幼子の死があったことを後にその両親は知り、その死の意味と慰めを見出されました。神による権威、神による価値が、人間のものさしを超えて働いたのです。

  • 星野さんが草花を見るそのまなざしは、主イエスのまなざしでもあります。道端の小さな花のような民、虫に食われた葉っぱのような徴税人、折れてもなお起き上がろうとする茎のような病人や障がい者、夏の陽で焼かれたような罪人と呼ばれた女たちや男たちをイエスはいとおしみ、体に触れ、心に触れ、魂を力づけられました。そのようにして神の国が到来したのです。人間の権威や価値から自由に解き放たれて、静かにひとりと向き合いつづけた主イエスの小さいけれども大いなる出来事が、「お言葉どおり、この身になりますように」というマリアの小さな決断から生まれました。この決断が私の決断として、クリスマスを祝う今日、与えられますように共に祈りましょう。 

「良き知らせを伝える者の足」

1999年11月28日

イザヤ書 第52章1~10節

辻中徹也牧師

 

  • 私は、学生の時、野宿労働者支援の活動に参加したことがあった。京都駅近辺で野宿しているおじさんに、おにぎりやみそ汁を持って訪ね歩いた。彼らの 立たされている場所と、親のすねをかじった甘っちょろい自分の立つ場の隔たりの遠さを感じた。しかし、彼らと出会った場に主イエスも共にて下さったと信 じている。臨時宿泊所へ着いたときのあるおじさんの嬉しそうな目の輝きに主イエスが共におられる喜びを見た想いがしている。

  • 第2イザヤは、紀元前539年前後、民がバビロン捕囚から解放される前後に活動した。エルサレムへの帰還と荒廃した都の復興を神の救いの実現と捉え た。しかし、半世紀を異教の地で過ごした民は、これまで築いてきた生活を捨てて、荒れ野を横切ろうとはしなかった。安住の力でない民の拒絶に、第2イ ザヤは深い挫折を経験した。

  • それでも主は民を「贖う」者である。「贖う」とは奪われた人や土地を一番の近親者が身代金や代金を支払って取り戻すことだ。やがて「贖う」は、罪からの 救いをも指す言葉となった。一番の近親者のごとく、神が圧迫された者を解放し失われたものの回復を引き受けて下さるのだ。

  • 第2イザヤを通して神は言われる。「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。」素足に近い姿で知らせに走った者の足がきれ いなはずはない。汗や泥にまみれているはずだ。しかし、神の贖いの知らせを人々と分かち合う「足」こそ、もっとも美しいのだ。挫折を知っている第2イザ  ヤの足もそうであったように、汚れ、傷つき傷みながらも「主の来臨の希望」を伝える「足」として歩ませていただこう。

「神のすばらしい約束」

1999年11月21日

ペトロの手紙二 第1章3~11節

辻中徹也牧師

 

  • 収穫感謝の日ということを念頭においてテキストに耳を傾けてみたい。自分は収穫の感謝から遠いところに生きてきたし、今もそうだと思う。土や肥料、汗  にまみれて天の恵みにすべてをゆだねる結果生まれるのが収穫の感謝だと思う。都会に育った自分は収穫の過程の「農」と言う世界から遠い。しかし、イ エスの譬えは「農」の体験にこそ響く。

  • 与えられたテキストは、グノーシス主義者と呼ばれる偽教師達の悪影響を重く見た著者の、教会への勧めと励ましが記されている。グノーシス主義とは善 悪の二元論でこの世を見る立場であった。創造神と被造物は悪であり、人の身体も悪とみなされた。一方、人の魂は神と同質の善とみなされた。そこから 仮現論(ドケティズム)が生まれた。キリストの死は、見かけ上のことで、キリストの魂は受難の前に身体を脱ぎ捨てたとする。

  • 新聞で「ホーリー・バージン・メリー」という聖母の絵が「反宗教的」だと物議を醸していることを読んだ。作者はイギリス在住の黒人画家でカトリック信徒だ。 彼はアフリカ旅行後、作品にゾウの糞を素材に使うようになった。ゾウの糞を使った黒人女性のマリア像は彼のアイデンティティを表現するひとつの信仰告 白だと感じた。管理され整備された都市で、「農」や自然との交流を失った宗教こそ「反宗教的」なのではないだろうか。

  • あるがままの日常を生き、隣り人を愛し、十字架の苦難を死んでいった主イエスが分からなくなったグノーシス主義の偽教師たちとどこか通じる狭さが私達 にないだろうか。信仰・徳・知識・自制・忍耐・信心・兄弟愛・愛を力を尽くして「加えなさい」とあるが、自分の日常にこれらを具体的に喜んで注いで歩むとき、私達は主イエスキリストを知るようになり、永遠の御国に入るというすばらしい約束が与えられている。