「島松だより 第24号」 2007年12月02日

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「島松だより 第23号」 2007年02月03日

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「島松だより 第22号」 2005年12月04日

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「島松だより 第21号」 2004年11月28日

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「島松だより 第20号」 2003年12月07日

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「島松だより 第19号」 2002年11月10日

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「一粒の麦」

2000年4月9日

ヨハネによる福音書 第11章20~26節

辻中徹也

 

  • 友人のMが本を出版することになった。10年前、沖縄の伊江島に移り住み、反戦地主のリーダーである阿波根昌鴻氏のもとで暮らしてきた。彼が毎月、友人や知人に当てて書き綴った手紙などが出版される。彼は伊江島で出会ったこと、そして自分自身と向き合ってメッセージを発信しつづけた
  • 今朝の個所に「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」とある。イエスは十字架を引き受けて生き抜かれ、多くの者が永遠の命を与えられた。イエスと多くの人々に起こった真実が麦の命にたとえられる。
  • 伊江島と言う小さな島に神はMという麦をまかれたのだと思う。彼の生身を通した、血の通ったメッセージに私は生かされてきた。多くの人々がそうだったと思う。考えてみれば、彼が伊江島に蒔かれた一粒の麦であるように、だれしもが神から与えられた持ち場で、一粒の麦として生きているのだと思う。
  • 私たちそれぞれが、一粒の麦である。一粒の麦として自分の持ち場を生きることが、互いを勇気付け、励ましあい、揺さぶりあい、互いを生かし合うネットワークを生む。
    私たちの教会がそのような群れへと招かれていることを覚えたい。一人ひとりが一粒の麦となる幸いへと招かれている。

「イエスの姿が変わる」

2000年4月2日

マタイによる福音書 第17章1~8節

辻中徹也

 

  • イエスと三人の弟子とが高い山に登った。イエスは、顔を太陽のように輝かせ、服は光りのように白く輝いていた。そして、モーセとエリヤと語り合った。モーセは旧約の律法をあらわし、エリヤは預言を表す。イエスは身に迫る十字架の苦難を突き抜けたところにある神のみ心を見つめ、苦難を神のみ心に適った事として見つめておられたに違いない。

  • ペトロはイエスとモーセとエリヤのために、ここい仮小屋を建てましょうと言った。仮小屋とは幕屋のことであり、神と語り合い、神を礼拝する場である。しかし、そのとき雲間から神の声がした。「これは私の愛する子、私の心に適う者、これに聞け」。神は救いの実現としてイエスと言う人格を与えられた。イエスに聞くことが私たちの礼拝である。

  • 山を下りたイエスを待っていたのは、混乱であった。悪霊が子どもを支配し、親がうろたえ、弟子たちが無力さをあらわにし、群集が取り巻いていた。イエスは嘆き、叱責し、苛立たれる。しかし、この混乱の中でもその子を悪霊から取り戻された。

  • イエスは山で栄光に包まれた。しかし、そこに留まらず山を下りられた。私たちが翻弄され、くたくたになり、途方にくれるような日常にイエスはおられる。限界を痛感し、確かなものがなく、孤独におちいるとき、そのときこそ「これに聞け」と神は主イエスを私たちに与えて下さっている。

「自分の十字架を背負って」 

2000年3月26日

マタイによる福音書 第16章 13~28

辻中徹也牧師

 

  • フィリポ・カイサリア、この町には皇帝を礼拝する神殿、ギリシャの神々を祭る神殿があり、自然をつかさどり豊穣をもたらすとされたバールを崇める一つの根拠地でもあった。
    この地でイエスは「あなたがたは私を何者だというか」と弟子たちに問われた。ペトロは「あなたはメシア・生ける神の子です」と答えた。生き生きと生き抜くことが困難なこの時代に生きる私たちに、この告白が自分のものとして与えられる必要があると思う。
  • イエスはペトロの告白を聞き、「わたしはこの岩の上に私の教会を建てる」と言われた.
    アラム語でペトロは「ケファ」、岩を意味する。神の救済史の目的はイエスによって先取りされている。その先取りの共同体が、イエスが言う「私の教会」であった。しかし、その土台となるペトロが完全無欠であったかというそうではない。
  • イエスはこの後、多くの苦しみを受けて殺されると、弟子たちに受難予告をなさった。
    ペトロはイエスに「そんなことがあってはなりません」といさめたが、「サタン、引き下がれ」と厳しい叱責をイエスから浴びせられた。教会は死から解き放たれ、命、復活につながっている共同体であるが、ペトロが受けたように「私の邪魔をするもの」「神のことを思わないで人のことを思っている」と指摘されねばなない共同体でもある。
  • しかし、ペトロをイエスは赦された。神の愛がイエスという人格において十字架のなかにあらわになったことをペトロは知った。ペトロは敗北にしか見えない十字架が、苦しみ多き状況の中に与えられた希望であり救いであることをイエスの復活の出来事として知った。「自分の十字架を背負う」ということは、主イエスによって、主イエスのために自分の命を捧げることである。「私のために命を失う者は、それを得る」というイエスの導きと励ましが招きとして与えられている。この時代の中でイエスが何者であるか告白して生きる恵みと幸いを私たちは与えられている。

「神の国は来ている」

2000年3月19日

ルカによる福音書 第11章14~26節

辻中徹也牧師

 

  • 神の国が来ている」(20)、そのしるしが主イエスのなさった口を利けなくする悪霊の追放であった。これがこのテキストの中心にあるメッセージです。年度末を迎え、私は憂うつです。人は誰しも口が利けなくなるときがあるのです。一年を振り返ることは、山積みのウニから素手で一個を取り出すような作業です。痛みがあり、一気に出来るものでなく、その前に立ち尽くすような日が続いています。しかし、そこに恵みがあります。

  • 教会の歩みを振り返るの作業は、痛みだけをやり過ごせばすむと言うナンセンスなものではありません。ウニの殻を割れば身を食べれるように、恵みの再発見によって新しい言葉が喜びと味わいとして与えられるのです。「一人一役」という教会の働きを担うことも同じです。

  • 今年度島松のテーマは「ゆっくり、気軽に話せる場をもとう」と言うことでした。新しい言葉、喜びや感謝の言葉、仕えあう言葉が生まれる場を私たちは必要としてきました。神はご自分の指で悪霊を追い出される方です。神にとって「私」は毒ウニのような存在かもしれません。刺だらけで、自己防衛する殻は厚く硬く、痛みや憂うつさや否定的な言葉をため込んでいます。しかし、神の指は痛みながらも毒の身をすくい取ってくださいます。

  • 主イエスの受難にいたる歩みも、十字架の受難も、神の愛を生きた神の指としての歩みでありました。神の指であったイエスを知るときに、私にとってなくてはならない、命のような言葉が与えられます。毒を含んだ言葉の奥底に、私を生かす言葉を与えて下さいます。「神の国は来ている」と宣言された主イエスの命に生かされ、新しい言葉で語り合い、聴き合って、教会の働きを分かち合い、担い合ってまいりましょう。