Archive for 説教要旨

「一粒の麦」

2000年4月9日

ヨハネによる福音書 第11章20~26節

辻中徹也

 

  • 友人のMが本を出版することになった。10年前、沖縄の伊江島に移り住み、反戦地主のリーダーである阿波根昌鴻氏のもとで暮らしてきた。彼が毎月、友人や知人に当てて書き綴った手紙などが出版される。彼は伊江島で出会ったこと、そして自分自身と向き合ってメッセージを発信しつづけた
  • 今朝の個所に「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」とある。イエスは十字架を引き受けて生き抜かれ、多くの者が永遠の命を与えられた。イエスと多くの人々に起こった真実が麦の命にたとえられる。
  • 伊江島と言う小さな島に神はMという麦をまかれたのだと思う。彼の生身を通した、血の通ったメッセージに私は生かされてきた。多くの人々がそうだったと思う。考えてみれば、彼が伊江島に蒔かれた一粒の麦であるように、だれしもが神から与えられた持ち場で、一粒の麦として生きているのだと思う。
  • 私たちそれぞれが、一粒の麦である。一粒の麦として自分の持ち場を生きることが、互いを勇気付け、励ましあい、揺さぶりあい、互いを生かし合うネットワークを生む。
    私たちの教会がそのような群れへと招かれていることを覚えたい。一人ひとりが一粒の麦となる幸いへと招かれている。

「イエスの姿が変わる」

2000年4月2日

マタイによる福音書 第17章1~8節

辻中徹也

 

  • イエスと三人の弟子とが高い山に登った。イエスは、顔を太陽のように輝かせ、服は光りのように白く輝いていた。そして、モーセとエリヤと語り合った。モーセは旧約の律法をあらわし、エリヤは預言を表す。イエスは身に迫る十字架の苦難を突き抜けたところにある神のみ心を見つめ、苦難を神のみ心に適った事として見つめておられたに違いない。

  • ペトロはイエスとモーセとエリヤのために、ここい仮小屋を建てましょうと言った。仮小屋とは幕屋のことであり、神と語り合い、神を礼拝する場である。しかし、そのとき雲間から神の声がした。「これは私の愛する子、私の心に適う者、これに聞け」。神は救いの実現としてイエスと言う人格を与えられた。イエスに聞くことが私たちの礼拝である。

  • 山を下りたイエスを待っていたのは、混乱であった。悪霊が子どもを支配し、親がうろたえ、弟子たちが無力さをあらわにし、群集が取り巻いていた。イエスは嘆き、叱責し、苛立たれる。しかし、この混乱の中でもその子を悪霊から取り戻された。

  • イエスは山で栄光に包まれた。しかし、そこに留まらず山を下りられた。私たちが翻弄され、くたくたになり、途方にくれるような日常にイエスはおられる。限界を痛感し、確かなものがなく、孤独におちいるとき、そのときこそ「これに聞け」と神は主イエスを私たちに与えて下さっている。

「自分の十字架を背負って」 

2000年3月26日

マタイによる福音書 第16章 13~28

辻中徹也牧師

 

  • フィリポ・カイサリア、この町には皇帝を礼拝する神殿、ギリシャの神々を祭る神殿があり、自然をつかさどり豊穣をもたらすとされたバールを崇める一つの根拠地でもあった。
    この地でイエスは「あなたがたは私を何者だというか」と弟子たちに問われた。ペトロは「あなたはメシア・生ける神の子です」と答えた。生き生きと生き抜くことが困難なこの時代に生きる私たちに、この告白が自分のものとして与えられる必要があると思う。
  • イエスはペトロの告白を聞き、「わたしはこの岩の上に私の教会を建てる」と言われた.
    アラム語でペトロは「ケファ」、岩を意味する。神の救済史の目的はイエスによって先取りされている。その先取りの共同体が、イエスが言う「私の教会」であった。しかし、その土台となるペトロが完全無欠であったかというそうではない。
  • イエスはこの後、多くの苦しみを受けて殺されると、弟子たちに受難予告をなさった。
    ペトロはイエスに「そんなことがあってはなりません」といさめたが、「サタン、引き下がれ」と厳しい叱責をイエスから浴びせられた。教会は死から解き放たれ、命、復活につながっている共同体であるが、ペトロが受けたように「私の邪魔をするもの」「神のことを思わないで人のことを思っている」と指摘されねばなない共同体でもある。
  • しかし、ペトロをイエスは赦された。神の愛がイエスという人格において十字架のなかにあらわになったことをペトロは知った。ペトロは敗北にしか見えない十字架が、苦しみ多き状況の中に与えられた希望であり救いであることをイエスの復活の出来事として知った。「自分の十字架を背負う」ということは、主イエスによって、主イエスのために自分の命を捧げることである。「私のために命を失う者は、それを得る」というイエスの導きと励ましが招きとして与えられている。この時代の中でイエスが何者であるか告白して生きる恵みと幸いを私たちは与えられている。

「神の国は来ている」

2000年3月19日

ルカによる福音書 第11章14~26節

辻中徹也牧師

 

  • 神の国が来ている」(20)、そのしるしが主イエスのなさった口を利けなくする悪霊の追放であった。これがこのテキストの中心にあるメッセージです。年度末を迎え、私は憂うつです。人は誰しも口が利けなくなるときがあるのです。一年を振り返ることは、山積みのウニから素手で一個を取り出すような作業です。痛みがあり、一気に出来るものでなく、その前に立ち尽くすような日が続いています。しかし、そこに恵みがあります。

  • 教会の歩みを振り返るの作業は、痛みだけをやり過ごせばすむと言うナンセンスなものではありません。ウニの殻を割れば身を食べれるように、恵みの再発見によって新しい言葉が喜びと味わいとして与えられるのです。「一人一役」という教会の働きを担うことも同じです。

  • 今年度島松のテーマは「ゆっくり、気軽に話せる場をもとう」と言うことでした。新しい言葉、喜びや感謝の言葉、仕えあう言葉が生まれる場を私たちは必要としてきました。神はご自分の指で悪霊を追い出される方です。神にとって「私」は毒ウニのような存在かもしれません。刺だらけで、自己防衛する殻は厚く硬く、痛みや憂うつさや否定的な言葉をため込んでいます。しかし、神の指は痛みながらも毒の身をすくい取ってくださいます。

  • 主イエスの受難にいたる歩みも、十字架の受難も、神の愛を生きた神の指としての歩みでありました。神の指であったイエスを知るときに、私にとってなくてはならない、命のような言葉が与えられます。毒を含んだ言葉の奥底に、私を生かす言葉を与えて下さいます。「神の国は来ている」と宣言された主イエスの命に生かされ、新しい言葉で語り合い、聴き合って、教会の働きを分かち合い、担い合ってまいりましょう。

「自分の命を献げる」

2000年2月27日

マタイによる福音書 第20章20~28節

辻中徹也牧師

 

  • 先週、電話機の設備を新しくすることや、電話回線をISDNに変える事等を考えていた。
    自分のパソコンの使い勝手のことなども絡んできて、それらのことで頭が一杯になった。
    他のことも手につかない状態になった原因は自分の物欲だと気づいた。最新の多機能の物が欲しいという欲、まだ使える物に対する執着との間を行ったり来たりしていた。
  • 「勿体ないは超トレンディー」という文書に出会って「これだ!」と思った。「勿体ない」は「体をなしていない」と言う意味で本来その物が持っている価値や使われるべき道が活かされていないという意味だとあった。それは「ケチる」とは全く違う。「ケチる」は出し惜しみすることだが、「勿体ながる」は本来の能力を引き出そうとすることなのだ。
  • このテキストにはイエスの弟子のヨハネとヤコブと彼らの母親が登場する。母親はイエスに「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、あなたの右に、もう一人はあなたの左に座れるとおっしゃって下さい。」と願った。それを聞いていた他の弟子は腹を立てた。
    一同に主イエスは言われた。「偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」
  • 他者をコントロールしたい心、権力を振るいたいという欲望は、多かれ少なかれ、また形を変えて私たちの中にある。主イエスはそのような捉われから一歩踏み出す生き方を、他者に仕えるという姿で示して下さった。他者に仕えるということは、他者を活かすこと、本来の持ち味を引き出すことではないだろうか。
  • 私たちには、主イエスがゲッセマネで血の汗を滴らせてお受けになった十字架と言う「杯」が与えられている。主イエスは「多くの人の身代金として自分の命を献げるために」
    来られた。主イエスは欲望を突破する生き方によって、この私を神の愛の世界に生きることへ取り戻して下さった。神の愛を受けて生かされている自分を、勿体ないことをしていないだろうか。互いに仕え合い、活かし合う歩みに私たちは招かれている。全ての被造物が輝いた場所と役割を与えられることを喜び大切にして行こう。

「パン五つと魚二匹」

2000年2月20日

ヨハネによる福音書 第6章1~12節

 辻中徹也牧師

 

  • 主イエスによって五千人に食べ物が与えられた。女性や子供を含め仮に2万人の人がいたとすれば、少年から差し出されたパンと魚はあまりにも小さすぎたはずだ。しかし、その小さなものが人々を一つにし、満腹を与えたのがこの出来事であった。大阪での万博で「月の石」を見た。ちっぽけな石であったが何千万人かの人々がこれを見て感嘆した。「月の石」でさえそうであったようにイエスが祝して裂き分かち合われた物が人々を満たした。

  • ヨハネによる福音書の第6章に貫かれているテーマは「命のパン」である。命のパンの与え手はイエスである。また同時にイエスは命のパンそのものであった。イエスが裂いたパンは人々を満腹させ、残ったパン屑が12の籠に一杯になったと記されている。12はイスラエル12部族を象徴しており、主イエスというパンによって新しいイスラエルが満たされたことを象徴している。人々が受けたパンは主イエスが十字架の上に裂かれたイエスの体であり、流された血である。

  • イエスは群集を見て「どこでパンを買えばよいだろう」と弟子フィリポに問われたが、これは第6章の中で最も重要な問いである。「私は命のパンである」という言葉がその問いの答えである。51~59節には、聖餐と深く関係する言葉でこの問いへの答えが記されている。「このパンを食べるものは永遠に生きる」。私たちは主イエスの十字架の贖いによって永遠の命を与えられている。

  • 私の小ささが、十字架を負われた主イエスの小ささと結び合うときに「愛」という具体的な出来事が私に迫ってくる。人々はその「愛」にあずかって「満腹」さえ与えられていく。互いの小ささが、主イエスの小ささと出会い、結び合わされることを願い、互いに祈り合う歩みに招かれている。私たちの祈り合いの背後に、差し出された小ささを神に感謝し祝福される主イエスの命がけの祈りがあることを覚え、その招きに従って行こう。

「屋根をはいで」

2000年2月13日

マルコによる福音書 第2章1~12節

辻中徹也牧師

 

  • 屋根にのぼるということで思い出すのはビートルズのドキュメント映画「Let It Be」。中学2年のころ、影響を受け、友人の家の屋上に楽器を運び音を出した。わくわくする宝物のような想い出だ。気の合う仲間とわくわくした経験を持つ方、今現在、仲間と熱くなっている方々もおられるだろう。

  • この物語も5人の仲間が屋根に登る。一人は床に寝かされた中風の者で仲間4人が運んできた。イエスが語られているその家には群集がつめかけ立錐の余地もない。彼らは屋根に上り、屋根をはぎ、イエスの前に床についた仲間を吊り降ろした。イエスは彼らの信仰を見た。イエスへの信頼、もう大丈夫という安堵、わくわくする喜びをイエスは見て取り、彼らが持つの信頼関係、友情、愛情を受け止められたに違いない。

  • この物語は奇跡物語に論争物語がサンドイッチのようにはさまれている。「子よ、あなたの罪は赦される」とイエスは宣言された。律法学者たちは神お一人のほかは罪を赦すことができないとつぶやき、イエスの宣言は神の冒涜だと考えた。イエスは「中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』というのと、どちらが易しいか」と問われ、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と語り、奇跡を起こされた。

  • この物語は罪の規定を絶対的な前提とする発想を批判している。「罪」という理念によって人間をはかるような人間理解を超えた存在として主イエスを伝えている。そして、それがイエスの独自性といことでなく、人間誰しもが持つ本質なのである。屋根をはいだ5人の仲間のうちに「罪」の規定を超えて生きる力を見出すことができる。4人に支えられた一人も、一人を支えた4人も主イエスの前に出て神の出来事に出会った。島松伝道所に集う一人が隣り人と支え合うことは小さなことかもしれないが、その小ささを主イエスは祝し大きな恵みとして下さる。私たちが支え合うことが、地区、教区、全国の教会の希望を担うこととして主によって用いられている。弱さを絆にした歩みに私たちは招かれている。

「正しい人を招くためではなく」

2000年1 月30日

マルコによる福音書 第2章13~17節

辻中徹也牧師

 

  • 「正しい人を招くためではなく」という説教題はイエスの言葉から取りました。ここでイエスが言う「正しい人」とはどんな人でしょうか。この物語には二つのグループが登場します。「全民衆」と「ファリサイ派の律法学者」です。イエスが共に生きようとしたのが前者で、対立したのが後者です。律法を守ること、それがファリサイ派の基準でした。彼らにとって神に招かれるのは、そういう「正しい人」でした。イエスがここで「正しい人」と言われるのは彼らの基準による「正しい人」です。
  • 全民衆の一人の例として徴税人レビがイエスに招かれ、イエスに従いました。そしてレビの家でイエスは食卓を共に囲みました。律法学者たちにとってはとんでもない事件です。「どうして徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と彼らは非難します。それに対して主イエスは「私がきたのは正しい人を招くためでではなく、罪人を招くためである」と言われたのです。ファリサイ派の価値観・基準・ものさしをひっくりかえし問い直しておられるのです。そして罪人を排除して成り立つ「正しい人」の立場に組せず、「罪人」と積極的に連帯する生き方を主イエスは身をもって示しておられます。
  • 新々宗教の大きな特徴は、ご利益主教であることだと言われます。キリスト教が本物の宗教として連綿と行きつづけているのは、ご利益と言うちっぽけなものを超えて、私が、家族が、隣り人が神に愛されているという大きな恵みを与えられているからです。それと同時に、一歩進んで愛するということがあったからです。沖縄がそうであるように、阪神大震災も、アイヌの人々のことも、教会の外の「社会問題」なのではなく、具体的に苦しみ、泣き、ときには喜び、笑う一人ひとりとの出会いが、私の問題と繋がっていく中で、主イエスの招きを聞き取る出会いとなるのです。徴税人レビが全民衆の一人として主イエスと出会い、愛されている自分、愛する自分と出会っていったように、問題の渦中で生きる一人との出会いが自分との出会い主イエスとの出会いへと豊かに広がっていくのです。
  • 「語り合おう」、ということの次に「出会おう」ということが私たちのスローガンになればと願います。私が「愛する」という世界を生きるために、そのことによって豊かにされるために私たち自身が「出会い」を必要としています。硬直したものさしで閉ざされた「正しい人」に近づこうとするのでなく、開かれた出会いよって愛を生きることへ主イエスは「罪人」であるままの私を招いていてくださいます。

「ぶどう酒に変わった水」

2000年1月23日

ヨハネによる福音書 第2章1~11節

辻中徹也牧師

 

  • 京都に阿闍梨(あじゃり)餅というおいしいお菓子がある。阿闍梨とは修行僧のことらしい。(辞典には弟子の行いを正し、その模範となる師とある)。修行が形から入るように、形から入ることによって意味がわかる事柄がある。先日の聖書輪読会でそういう話題が出た。そのとっかかりは聖餐式のスタイルに関することだった。

  • 礼拝に集うすべての者が与かれる聖餐式を私たちは行っているが、説明がないと戸惑うという意見があった。教会によっては聖餐式は受洗者に限る上、聖餐に何回与かったかが総会出席の資格となるそうだ。自分の歩みを振り返ると、受洗者に限らずすべての者が与かれる聖餐式を体験したとき、型とか枠というものから自由になって、無条件に与えらている神の恵みをリアルに感じることができたことを想い起こす。オープンかクローズドかどちらが正しいかと言う議論もあるが、それよりも大事なことは語り合う中でお互いの違いを違いとして知り、何を共有することが大切なことなのか一緒に発見していくことではないだろうか。

  • 新しい年を迎えて、インフルエンザて数日寝込んだ。これからの教会の歩みを考えてみるのに良い機会だった。たくさんの課題が私たちにはある。障がい者と共に、子どもと共に、地域と共にという宣教に島松らしく取り組むにはどういう道があるか。質に対して数ということで考えれば、どのような伝道をすれば仲間が増し加えられるか。子どもたちを育てていくにはどのようなことができるか。全国募金の今の状況にこれからどう対応していくか。こんな課題についても語り合い、それぞれの違いを知り、しかし何を共有することが大切か発見していく必要があると思う。

  • 今日のテキストは婚礼の席で足りなくなったぶどう酒を、イエスが水をぶどう酒に変えることによって与えたと言う奇跡物語が記されている。イエスに命じられた者は6つの水がめに「縁まで水を満たした」。できることを精一杯したところにイエスが働かれ奇跡が起こった。私たちは自力で水をぶどう酒に変えようと力んだり、その力がないことを嘆いたりする。しかし、与えられているものを精一杯出し合ったところに、イエスの力が働いて、水はぶどう酒に変わる。そんな出来事に出会うように、招かれている。「縁まで水を満たす」ことをなし、イエスの力が働くことに委ねていきたい。

「わたしの子を呼び出した」

2000年 1月2日

マタイによる福音書 第2章13~15節

辻中徹也牧師

 

  • ヘロデ王は残酷な支配者として歴史に残っている。彼はイドマヤの出身であった。イドマヤは紀元前130年ごろユダヤに編入され、宗教的にもユダヤ教に編入された。ヘロデは半分異邦人であり、純粋なユダヤ人からは蔑まれる存在であった。ハスモン朝の王女マリヤムネ1世と結婚し王権を継ぐ正当性を得ようとしたが、暗殺の陰謀に悩まされ、猜疑心に苦しめられて人を殺し続けた。「ヘロデの息子であるよりも豚のほうが安全だ」と言われるほど王位を窺う近親者の殺害も辞さなかった。

  • 私達は自分はヘロデのような人間ではないと思いたい。しかし、自分にとって代わる王の誕生に不安を抱いたのは彼だけでなくエルサレムの者が皆そうだった。自力でやってきて、なんとか生活の安定を手に入れた者にとっては、変化への不安は普通なのかもしれない。しかし、その普通の不安を打ち消すことが過ちを生み、過ちが雪だるまのように膨れ上がってとんでもない結果となる。ナチスのユダヤ人虐殺、日本のアジア諸国への侵略と虐殺、日本が受けた原爆など、人間の過ちの結果に愕然としてきたのが20世紀であった。

  • マタイ2章は「地上の王ヘロデ」と「全人類の王イエス」との対決と言うテーマで貫かれている。イエスは母に抱かれ、父に守られなければ生きていけない幼子であった。弱さ、小ささ、無力さのなかで両親の信仰と愛に身をゆだねる者としてそこに居た。それはなんと豊かで、救いを示すことだろう。弱さは「共に」という世界を生む。小ささは「守られ、守る」という意味と尊さを生む。無力であることは自分の自信に執着する愚かさや捕らわれからの「自由」をもたらす。

  • 自分への執着、自分の自信、自分の安定に捕らわれる私たちの姿は、小さな「地上の王」の姿であり、ヘロデに組する姿である。地上の王である私に、神は「全人類の王」イエスを呼び出してくださった。あの、人が人を支配するエジプトから、今度は私のエジプトへ神はイエスを呼び出してくださった。そのようにして、私の叫び、うめき、孤独がこだまする私のエジプトから、神は私を呼び出される方である。そして、神はこの私をも、隣り人のエジプトへと私を呼び出し、遣わされる。「私は、エジプトから私の子を呼び出した。」新しい年、この神の言葉がこの私においても実現することを信じ、祈りつつ歩んでいこう。