「正しい人を招くためではなく」

2000年1 月30日

マルコによる福音書 第2章13~17節

辻中徹也牧師

 

  • 「正しい人を招くためではなく」という説教題はイエスの言葉から取りました。ここでイエスが言う「正しい人」とはどんな人でしょうか。この物語には二つのグループが登場します。「全民衆」と「ファリサイ派の律法学者」です。イエスが共に生きようとしたのが前者で、対立したのが後者です。律法を守ること、それがファリサイ派の基準でした。彼らにとって神に招かれるのは、そういう「正しい人」でした。イエスがここで「正しい人」と言われるのは彼らの基準による「正しい人」です。
  • 全民衆の一人の例として徴税人レビがイエスに招かれ、イエスに従いました。そしてレビの家でイエスは食卓を共に囲みました。律法学者たちにとってはとんでもない事件です。「どうして徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と彼らは非難します。それに対して主イエスは「私がきたのは正しい人を招くためでではなく、罪人を招くためである」と言われたのです。ファリサイ派の価値観・基準・ものさしをひっくりかえし問い直しておられるのです。そして罪人を排除して成り立つ「正しい人」の立場に組せず、「罪人」と積極的に連帯する生き方を主イエスは身をもって示しておられます。
  • 新々宗教の大きな特徴は、ご利益主教であることだと言われます。キリスト教が本物の宗教として連綿と行きつづけているのは、ご利益と言うちっぽけなものを超えて、私が、家族が、隣り人が神に愛されているという大きな恵みを与えられているからです。それと同時に、一歩進んで愛するということがあったからです。沖縄がそうであるように、阪神大震災も、アイヌの人々のことも、教会の外の「社会問題」なのではなく、具体的に苦しみ、泣き、ときには喜び、笑う一人ひとりとの出会いが、私の問題と繋がっていく中で、主イエスの招きを聞き取る出会いとなるのです。徴税人レビが全民衆の一人として主イエスと出会い、愛されている自分、愛する自分と出会っていったように、問題の渦中で生きる一人との出会いが自分との出会い主イエスとの出会いへと豊かに広がっていくのです。
  • 「語り合おう」、ということの次に「出会おう」ということが私たちのスローガンになればと願います。私が「愛する」という世界を生きるために、そのことによって豊かにされるために私たち自身が「出会い」を必要としています。硬直したものさしで閉ざされた「正しい人」に近づこうとするのでなく、開かれた出会いよって愛を生きることへ主イエスは「罪人」であるままの私を招いていてくださいます。

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