「わたしの子を呼び出した」

2000年 1月2日

マタイによる福音書 第2章13~15節

辻中徹也牧師

 

  • ヘロデ王は残酷な支配者として歴史に残っている。彼はイドマヤの出身であった。イドマヤは紀元前130年ごろユダヤに編入され、宗教的にもユダヤ教に編入された。ヘロデは半分異邦人であり、純粋なユダヤ人からは蔑まれる存在であった。ハスモン朝の王女マリヤムネ1世と結婚し王権を継ぐ正当性を得ようとしたが、暗殺の陰謀に悩まされ、猜疑心に苦しめられて人を殺し続けた。「ヘロデの息子であるよりも豚のほうが安全だ」と言われるほど王位を窺う近親者の殺害も辞さなかった。

  • 私達は自分はヘロデのような人間ではないと思いたい。しかし、自分にとって代わる王の誕生に不安を抱いたのは彼だけでなくエルサレムの者が皆そうだった。自力でやってきて、なんとか生活の安定を手に入れた者にとっては、変化への不安は普通なのかもしれない。しかし、その普通の不安を打ち消すことが過ちを生み、過ちが雪だるまのように膨れ上がってとんでもない結果となる。ナチスのユダヤ人虐殺、日本のアジア諸国への侵略と虐殺、日本が受けた原爆など、人間の過ちの結果に愕然としてきたのが20世紀であった。

  • マタイ2章は「地上の王ヘロデ」と「全人類の王イエス」との対決と言うテーマで貫かれている。イエスは母に抱かれ、父に守られなければ生きていけない幼子であった。弱さ、小ささ、無力さのなかで両親の信仰と愛に身をゆだねる者としてそこに居た。それはなんと豊かで、救いを示すことだろう。弱さは「共に」という世界を生む。小ささは「守られ、守る」という意味と尊さを生む。無力であることは自分の自信に執着する愚かさや捕らわれからの「自由」をもたらす。

  • 自分への執着、自分の自信、自分の安定に捕らわれる私たちの姿は、小さな「地上の王」の姿であり、ヘロデに組する姿である。地上の王である私に、神は「全人類の王」イエスを呼び出してくださった。あの、人が人を支配するエジプトから、今度は私のエジプトへ神はイエスを呼び出してくださった。そのようにして、私の叫び、うめき、孤独がこだまする私のエジプトから、神は私を呼び出される方である。そして、神はこの私をも、隣り人のエジプトへと私を呼び出し、遣わされる。「私は、エジプトから私の子を呼び出した。」新しい年、この神の言葉がこの私においても実現することを信じ、祈りつつ歩んでいこう。

Comments are closed.