1999年5月16日
マタイによる福音書第28章16~20節
辻中徹也牧師
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11人の弟子はガリラヤの山で復活の主にひれ伏したが、疑う者もいたとあります。「山」はイエスがサタンに試みられ、変貌し、教えを説かれた場所です。言わば「教会」であったのですが、疑う者もいたというのはマタイの教会の現実であったようです。他の福音書が復活の主の顕現をいくつも記しているのに対して、マタイは主の言葉を記しています。主の言葉に従うとき疑いは晴らされていくのです。
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死を見つめることによって、はじめて、生を見つめて生きることができます。イエスの生を知ることは十字架の死を見つめるところから始まると言ってよいのかも知れません。イエスは政治犯、冒涜者、革命家として死んだとも言えます。しかし、そこには弟子たちの裏切りがありました。裏切った者にとって十字架は贖罪(罪の赦し)となりました。イエスの復活は愛の復活であり赦しの実現であったからです。
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「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」という宣言に支えられて、「すべての民をわたしの弟子にしなさい」「父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、命じておいたことすべてを守るように教えなさい」と私たちはこの世界に遣わされています。
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私たちが本当に生きることを願うならば、キリストと共に死ぬことを求められるのです。キリストと共に死ぬことによって、私たちははじめて真に生きること、つまり、キリストと共に生きることができるのです。