「神のラッパが鳴り響くとき」

1999年5月9日

テサロニケⅠ 4章13~18節

辻中徹也牧師

 

  • 今日は母の日ですが、教会の父といってもいい田川正悦兄が7日(金)未明に天に召されました。正悦さんは戦後まもなく洗礼を受けておられます。数年前に大腸がんの手術をされ、しばらく順調でしたが、2年前に肺がんにかかられ9時間の大手術をも受けられました。頸椎(けいつい)に転移し治療を受けられていましたが肺炎にかかられ、ついに神のみもとへ召されました。人間の生は死と向き合うときにその意味が鮮明にされるものだと思います。ウイスキーの原酒が樽の中で熟成していくように、死を見つめるときに生もまた熟成していくのでしょう。

  • 原崎百子さんもまた1978年8月、肺がんによって夫と4人の子どもを残し43歳でなくなられました。著書「わが涙よわが歌となれ」は、なくなる1月半前、夫から病名を告げられた後、書き続けられた日記とテープをもとに編集された遺稿集です。「これまでの一切は、これから始まる<死>までのよい準備期間であった」と記されています。彼女が残された言葉は、人間が人間であるがゆえに持っている弱さや限界をあるがままにみつめつつ、その人間を越えた神(いのちの源)に自己をゆだねて生きるとき、そこから無限の恵み、力を受けて、限りあるいのちを輝かせて生きうることを教えてくれます。

  • パウロは、こわれやすく、もろい器である人間が、その器の中に盛られた宝-測り知れない神の力-によって、こわれゆく器を越えて生かしめ、いかなる困難に出会うとも、再び立ち上がる力を与えると語っています。神のラッパの鳴り響くとき、私たちがどう生きてきたか、どう生きているかが明らかになります。それがいつなのか私たちには知らされていません。しかし、そのとき私たちにキリストが再び臨まれるのです。そして、すでにキリストに結ばれて死んだ人たちが、キリストと結ばれていたがゆえに永遠のいのちを与えられて今も生かされていることを知らされるのです。

  • 百子さんは「愛する子どもたちへ」のなかで「一人一人をかけがえのないものとして、慈しんで下さっている神様の愛を信じて欲しい。たとい、お母さんが天に召されても、それでもあなたがたが信じ続けられるように。悲しみを乗り越えて生きていけるように。覚えて欲しい、私の愛は小さな支流、神さまの愛こそが本流であると。」と記されています。正悦さんが示して下さった愛もまた神の愛という本流から流れ出た支流であります。私たちもその歩みに倣って生きる者とならせていただきたいと祈りましょう。

Comments are closed.