「主がなさったこと」

1999年3月21日

マルコによる福音書 第12章1~11節

説教者 辻中徹也牧師

 

  • マルコ12:1~11のたとえにおいてもぶどう畑はイスラエルの地、その所有者は神であります。したがってこのたとえは、イザヤのぶどう畑の歌と同様に、神とイスラエルの関係をかたるものとして読むことができます。しかしここではイスラエルの民全体を問うているのではなく、祭司長、律法学者、長老という民の指導者のあり方を問うています。彼らは(農夫たち)は神の期待にこたえられなかっただけではなく、神に叛逆し、神から遣わされた預言者たち(たとえでは僕たち)を侮辱したり、迫害したり、殺したりします。最後には神はイエス(たとえでは愛する息子)を遣わすのですが彼らはぶどう園を自分たちのもにしようとしてそのイエスを殺してしまうのです。そこで神はイスラエルの指導者を滅ぼし、その地を「ほかの人たちに与えるに違いない」と記されています。本来「ぶどう園と農夫」のたとえは9節の叛逆したイスラエルの指導者に対する神の裁きをもって頂点に達し、終わっていたと思われます。ところがこの話しには10、11節の言葉が続いています。これは詩篇118編22~23の引用です。「聖書にこう書いてあるのをよんだことはないのか。『家を建てる者の捨 てた石、これが隅の親石となった。これは主がなさったことで、私たちの目には不思議に見える』」。この引用の言葉によって、殺害されたイエスを神は復活させられ、受難と復活をとおしてイエス・キリストが教会の礎石となられた、そこに神の救済の計画が実現したということを示しているのです。

  • ぶどう園の主人は農夫たちが心配なく働くことのできる完備されたぶどう園を作りました。「垣をめぐらし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て」たのです。これは、イスラエルを選び、守り育む神の愛を示し、指導者たちに対する神の期待を示しています。そして主人は「それを農夫たちに貸して、旅に出ました」。神は愛の関係の中に、すべてを託して旅立っておられるのです。神が旅立っておられるというところに人間の生の現実があります。人を与えられた自由を行使する者として生かすために、神の旅立ちがあったのです。ぶどう園はこのようにして農夫たちに貸与されました。しかし、決して彼らはその所有者ではないのです。しかし主人の不在は、農夫たちにとって残虐な罪を犯すほどの自由をうんでしまったのです。

  • やがて収穫の時がきます。それは農夫たちにとっては危機のときでさえあったのです。主人のもとから三人の僕が派遣されます。最初の僕は袋叩きにされ、次の者は頭を殴られ、侮辱され、三番目の僕は殺されてしまいます。5節の後半には「多くの僕を送ったがある者は、殴られ、ある者は殺された。」とあります。異常なほどの多数の僕たちの派遣と多大な僕の苦難と犠牲は、まさに預言者たちが神から遣わされ、しかし、民に拒否され、あるいは殉教させられたことについての長い経過がしめされています。それはユダヤ教の伝統的預言者感であり、このたとえを成立させる背景ともなっています。農夫たちの叛逆はイスラエル指導者の罪を示しています。神が貸し与えられたものを神のために用いず、ただ自分のために用い、神の配慮を利用するのです。彼らはその危険な事態に警告し悔い改めを告げる預言者を逆に憎しみ続け、神に抗う者となっていくのです。しかし、神は次々に自分の僕としての預言者を送り込まれます。それは人々の回心を願い続け説得に当たる神自身の忍耐でありました。

  • ついに神である主人は、事態を収拾させるために父に変わる法的全権をもつ息子が送られます。しかし、この息子を農夫たちには殺害し、ぶどう園の外にほうり出してしまうのです。神の忍耐を裏切り、傷つけ続けた「農夫たち」の叛逆を考えるとき、それにも関わらず愛する息子が派遣されたことは理解を絶する神の恵みを表しています。ヨハネが福音書に記したように「神はその一人子をお与えになったとほどに、世を愛された。一人子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」という福音がそこにしめされています。しかし、差し出された神の手を農夫たちは断ち切ってしまったのです。「さあ殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のもになる」それが人間の抱く幻想であることに人間は気付かないのです。人間は自分の力で立ち、自分で自分の人生を支配することができるという幻想を持つこととによって、神のみ手を断ち切り、御子を殺し、捨て去るのです。しかし、人間にとって自分の人生とは、神から貸し与えれら、ゆだねられたぶどう園であって、その所有者は神であるのです。

  • わたしたちの人生、ぶどう園でも労働の日々なのかもしれません。人生の主人たる神は遠く、そして日毎に忘れ去られていくのです。いつしか人は自分を自分の人生の支配者と思い、それに執着し、その実りを独り占めしようとします。しかし収穫の時がやってきます。人生の四季それぞれの実りを「神に喜ばれる、生きた聖なる供え物としてささげ」、生かされているいのちと恵みを分かち与えられる<時>がやってくるのです。

  • しかし、不思議なことに、この<時>は人間には多くの場合ひとつの危機、そのまえで立ち往生してしまう時として経験されるのではないでしょうか。病むときがそうでありますし、人生の途上で出会う様々の危機もまたそうであります。この<時>を危機として経験することの中に、「主人」の不在のなかで過ごしてきた人間の現実があると言えないでしょうか。神の不在の持つ意味は人間の現実のなかでは、しばしば隠されています。けれども<危機>はこの隠されている真実を発見する「機会」チャンスでもあるのです。たとえば病が、忘れ見失われていた人生の本当の「主人」の存在に気付かせ、神の愛と配慮によっていのちと賜物をゆだねられた「神のぶどう園の農夫」としての自己の人生を見渡す機会を与えると言うことがあるのです。人間は人生の途上に出会う様々の危機をとおして何度も何度も神からのメッセージを受けるのです。この細くて遠い声を聞き分けることは強情な私たちにとって困難なことです。ついに神は「メガホン」を持ち出され、自分が自分の主人だといわんばかりの私たちの幻想や夢から呼び覚まされるのです。

  • 人生の収穫を心から神にさしだし分かち合うまでに、私たちは本当の主人である神に対して残虐な農夫のような者としてしか生きれない現実を持っています。十字架で血を流すイエス・キリストという、捨てられた者として、捨てられた者の病をおい、罪を負うことによって「癒やし」を与え「救済」をあたえて下さる方を私たちは与えられています。

    「家を建てる者が捨てた石、これが隅の親石となった。これは主がなさったことで、私たちの目には不思議に見える。」十字架のイエス・キリストによって、神がなさったことを、仰ぎ見つつ歩んで参りましょう。

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