「落胆しません」

1999年3月14日

コリント信徒への手紙 第4章1~6節

説教者 辻中徹也牧師

 

  • パウロは律法を遵守することが救いに至る道だと信じ、それゆえ律法を守れない者を切り捨てていったあり方から、主イエスこそを神の子と信じるて生きるあり方に唯一の救いがあるのだという世界へとは生き方を変えることができました。そこに「主イエスから自分は憐れみをうけた。そしてこの福音を宣べ伝えることを務めとして託されている」という確信に立つ歩みが生み出されました。

  • パウロがコリントの教会を去ったあと、「大使徒」と呼ばれる人々からの推薦状を携えてコリントへ入った教師たちが、コリント教会の大勢を味方に付けてパウロの説いたのとはまったく異なった福音を説き、まったく別の方向へ引っ張っていこうとしていたのです。彼らはグノーシス主義者と呼ばれる人たちで、霊と体を二元論的にとらえ、霊的なものは重んじるが、肉体的なものはおとしめるという思想を持つものたちでした。その結果として彼らは地上における倫理的生活を軽視する傾向にあったと言われています。彼らは、パウロを中傷し、彼は信用ある推薦状を持たないものだと言い、よこしまな野心から自分を売り込もうとしているとふれまわったようです。しかしながら、このような窮地に立たされたなかでパウロは言うのです。「私たちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。」つまり迫害者でありながらも復活の主イエスとの出会ったという、主イエスの憐れみに触れ、務めをゆだねられたという、パウロの活動の源泉を見据えることによって、事態がたとえ窮地に立たされていようとも「落胆しません」と力強く語ることができたのです。パ ウロは真理と出会っています。主イエスの迫害者であったにもかかわらず、主イエスが憐れみ赦し愛して下さった。その福音に立っているものとしての自分自身を判断するのは「すべての人の良心」である。パウロは自分の持つ真理は良心によってかならず受け入れられるものだという信念を持っていたのです。

  • しかし、それにもかかわらず、パウロが与えられている福音を福音として受け入れられない人もいると言うことをパウロは語ります。「私たちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道を辿る人に対して覆われているのです。」パウロがコリントの信徒への手紙Ⅰの1:18に記しているように「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」ということがここに於いても人間の現実の姿として指摘されているのです。この「滅んでいく者」の不信と頑なさは「<この世の神>が信じようとはしないこの人々の心の目をくらました」からである、と、福音宣教に立ちはだかる<この世の神>に捉えられた人間のあり方を指摘しています。<この世の神>は捕らえた者に「神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです」とパウロは記します。<この世の神>と言う表現でパウロが表しているのはグノーシス主義者が言うところの「人間を救いに導く知恵」と読めます。グノーシス主義者は自分たちはこの「グノーシス」と呼ばれる知恵を持っていると誇りにしているのですが、そう思っている彼らこそが福 音の真理を見失っている、<この世の神>に思考をくらまされているというきつい批判を行っているのです。彼らには「キリストの栄光に関する福音の光がみえない」のです。グノーシス主義者は、グノーシス的な救済者のイメージを持っていました。彼らはそこから「キリスト」を理解しようとします。彼らにとっては復活者であり昇天者であることがキリストの栄光でありました。しかし、パウロが説く栄光は本来の意味の栄光とは相容れない逆説的なものです。パウロに於いてキリストの栄光とは、悩みと恥にまみれた十字架の姿に他ありません。グノーシス主義者には十字架によって痛めつけられ、苦難をおったキリストの中にある「栄光」は無意味なものでしかりませんでした。肉体を離れ天に昇り、復活した霊的なキリストにしか「栄光」という意味を見出すことができなかったのです。悩みと恥にまみれた十字架のキリストの姿の中に、あふれ出ている神の愛を受け止める、そういう者にこそ、パウロの語る「キリストの栄光」の輝きを仰ぐことがゆるされるのです。<この世の神>に曇らされた目には、この輝きは見えてきません。現実のなかで十字架を負うことを忘れた者たちの目にも、それは 見えてきません。十字架の栄光の輝きは価値の尺度が逆転されない限り見えてこないのです。壮大な礼拝堂、美しいステンドグラス、パイプオルガンの響き、金ぴかの衣、大会衆の熱狂の中にキリストの栄光があるのではありません。キリストの栄光は、踏みつけにされて生きる人々の側に立つ者のところに、奪われた人間性の回復を求める者の闘いの中に、苦しむ者の苦しみを共に担う者の歩みの中に、「世の目からは覆われた栄光」として見出されるものであります。パウロがそのように語り、記すことができた根拠が次の言葉に示されています。「わたしたちは、自分自身を述べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを述べ伝えている」からです。敵対者たちがこの世の神に目をくらまされているという主張する根拠は、パウロたちが何も自分を売り込んでいるわけではなく、キリスト・イエスが主であると述べ伝えているのに、それを受け止めることができないのであったら、そう言うほかないからであります。

  • パウロの宣教の中心点は徹頭徹尾「キリスト・イエスが主である」と言うことです。このメッセージは自分を売り込むなどという類のものではなく、それどころか、その宣教者をして徹底的に「僕」の位置に立たしめるものであります。「主」を告白すると言うこと、「主」を宣教すると言うことは「僕」として生きるという以外の場からは、真実な言葉とはなり得ないのです。パウロの言葉はさらにもう一段先に向けらられています。すなわち、パウロにとってイエスの「僕」であるということは、教会の「僕」となることにおいて具体化されるということです。「わたしたちは、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。」というのです。パウロはコリント教会に対しても、自分を売り込み、勢力を張り、支配するどころか、裏切られ、踏みつけられても、仕え、与え、愛し抜いてきたのです。それこそが、パウロの宣教の裏付けであったのです。

  • イエスが主であることを、自らが「僕」として生きることによって宣べ伝えるのは、創造の神が、われわれの心の闇に光を照らしてくださったからだとパウロは記します。パウロは信仰が与えれるという奇跡を、天地創造における「光」の創造に匹敵するものとしています。このとき、パウロの心には、自分の回心の体験が思い起こされていたにちがいありません。それは、神からの光が彼の魂の闇を破った出来事であり、その時にパウロは新しい存在に造り替えられたのです。キリストの栄光に目を開かれたキリスト者は、新しい創造のみ業における、新しい「光」の存在のしるしであるのです。「イエス・キリストのみ顔に輝く神の栄光を悟る光」とは、恥のきわみである十字架のキリストの「苦難」の「顔」にこそ、神の栄光を仰ぐことができるという認識を与える「光」であります。それは、創造者の「光あれ」という言葉によって、奇跡的な出来事としてのみ生み出される認識をもたらし、われわれを「僕」の道へと立ちいでさせずにおかない、決断を伴う認識を産みださずににおかない「わたしたちの内に輝く光」であります。だからこそ、まことの宣教者の道は僕の道であるとパウロは教えてい るのです。

  • 島松伝道所はこの地に生み出されて45周年を迎えました。多くの人々の祈りと働きによって、生み出され、また歩みを続けてきました。「落胆」せずにおれないような困難や危機がきっと何度となく乗り越えられてきたにちがいありません。パウロが「落胆しません」と語り得たように、私たち島松伝道所にもまた「落胆しません」と語りうる、信仰の光と力とが与えられてきましたし、今もまた与え続けられています。「イエス・キリストのみ顔に輝く神の栄光を悟る光」が私たちにも常に与えられ続けてきたからです。パウロが教えたように、主を告白し、主を宣教する、「僕」として歩む決意を新たに与えられる事を祈り求めつつ、また、これまで与えられた導きを感謝しつつ、今、この時代を、この場所で生きる教会として「キリストの栄光」を仰ぎ見るものとして、宣教の歩みを共に担い合って歩んで参りましょう。

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