1998年12月27日
マタイ福音書2章16~23節
辻中徹也牧師
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救い主が誕生する、それはこの上ない喜びであり、私たちに永遠の命に至る道を開く出来事であります。けれども、そのために たくさんの幼い子どもたちが虐殺されたという出来事をつきつけられるとき、私たちの思いは複雑になります。神さまはなぜ、そんなむごい出来事に沈黙されヘロデのなすがままになさったのか?救い主の誕生のゆえに、その子どもたちが犠牲になるのはしかたないというのか?救い主イエスだけが、夢による導きによって虐殺を免れるのは、不公平ではないか?自分だけが生き残 る救い主なんてどこかおかしい!そんな想いが心にもたげます。
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救い主は自分では何ひとつすることができない「いのちを支えられ」てしか存在できない無力な姿で誕生されました。危機の中 に全くの無力な者として生まれられた、そのことを見据えていく彼方にしか納得のいく答えは得られないと思います。神は決して 失われたいのちを見捨てられたのではなかったという答えを与えて欲しいと思わずにおれません。
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マタイはヘロデの幼児虐殺を「預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。」と記します。これは、北王国イスラエルが紀元前721年にアッシリア の攻撃にあって滅亡したとき、多くの人々が捕虜となりアッシリアに移住させられる祭に、ラマを通ったわけですが、そのときいわば「草葉の陰から」今はなき民の母ラケルが子孫の悲劇のために泣いた、その嘆き悲しみをさしているのです。そのエレミヤの語った嘆き悲しみがが、ヘロデによる幼児虐殺によって現実となったとマタイは記しているのです。イエスを殺そうとする心は、 人間の営みの中に繰り返し起こりうることです。そして、そのたびに無実のいのちが殺されていくのです。
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神はどこにいるのか?そう問わずにおれない事態の中で、「実に神は絞首台につるされている」ヴィーゼルはそんな声を聞きま した。ホセアもまた、民のくびきを取り去り、身をかがめて食べさせる愛の神の姿を語ったのです。いのちを奪い取る「刃」の中で、嘆き悲しむ声の中で、私たちはヨセフの歩みに連なるものであることを願います。神の声、神の示しにひたすら従ったヨセフの歩みの彼方に、私たちは、十字架で処刑された神の姿を見、身をかがめられた神の姿を見るからです。「いのちを支えるの側にいるのは弱いというよりも本当に謙遜ないのちである。」そのことをイエスの生涯を通して確かなこととして知らされます。救い主誕生の犠牲として多くの幼子が殺されたという人がいてもおかしくないと思います。しかし、神ご自身がそのときヘロデの刃に切り裂かれたのです。神の子もまた、罪の刃による死へと身をかがめられたのです。本当に謙遜ないのちが今も嘆き悲しみ者のも とへ身をかがめておられる。この神の姿をキリストを通して信じ、応えて歩むものとならせていただきましょう。