2000年2月20日
ヨハネによる福音書 第6章1~12節
辻中徹也牧師
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主イエスによって五千人に食べ物が与えられた。女性や子供を含め仮に2万人の人がいたとすれば、少年から差し出されたパンと魚はあまりにも小さすぎたはずだ。しかし、その小さなものが人々を一つにし、満腹を与えたのがこの出来事であった。大阪での万博で「月の石」を見た。ちっぽけな石であったが何千万人かの人々がこれを見て感嘆した。「月の石」でさえそうであったようにイエスが祝して裂き分かち合われた物が人々を満たした。
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ヨハネによる福音書の第6章に貫かれているテーマは「命のパン」である。命のパンの与え手はイエスである。また同時にイエスは命のパンそのものであった。イエスが裂いたパンは人々を満腹させ、残ったパン屑が12の籠に一杯になったと記されている。12はイスラエル12部族を象徴しており、主イエスというパンによって新しいイスラエルが満たされたことを象徴している。人々が受けたパンは主イエスが十字架の上に裂かれたイエスの体であり、流された血である。
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イエスは群集を見て「どこでパンを買えばよいだろう」と弟子フィリポに問われたが、これは第6章の中で最も重要な問いである。「私は命のパンである」という言葉がその問いの答えである。51~59節には、聖餐と深く関係する言葉でこの問いへの答えが記されている。「このパンを食べるものは永遠に生きる」。私たちは主イエスの十字架の贖いによって永遠の命を与えられている。
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私の小ささが、十字架を負われた主イエスの小ささと結び合うときに「愛」という具体的な出来事が私に迫ってくる。人々はその「愛」にあずかって「満腹」さえ与えられていく。互いの小ささが、主イエスの小ささと出会い、結び合わされることを願い、互いに祈り合う歩みに招かれている。私たちの祈り合いの背後に、差し出された小ささを神に感謝し祝福される主イエスの命がけの祈りがあることを覚え、その招きに従って行こう。