2000年1月23日
ヨハネによる福音書 第2章1~11節
辻中徹也牧師
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京都に阿闍梨(あじゃり)餅というおいしいお菓子がある。阿闍梨とは修行僧のことらしい。(辞典には弟子の行いを正し、その模範となる師とある)。修行が形から入るように、形から入ることによって意味がわかる事柄がある。先日の聖書輪読会でそういう話題が出た。そのとっかかりは聖餐式のスタイルに関することだった。
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礼拝に集うすべての者が与かれる聖餐式を私たちは行っているが、説明がないと戸惑うという意見があった。教会によっては聖餐式は受洗者に限る上、聖餐に何回与かったかが総会出席の資格となるそうだ。自分の歩みを振り返ると、受洗者に限らずすべての者が与かれる聖餐式を体験したとき、型とか枠というものから自由になって、無条件に与えらている神の恵みをリアルに感じることができたことを想い起こす。オープンかクローズドかどちらが正しいかと言う議論もあるが、それよりも大事なことは語り合う中でお互いの違いを違いとして知り、何を共有することが大切なことなのか一緒に発見していくことではないだろうか。
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新しい年を迎えて、インフルエンザて数日寝込んだ。これからの教会の歩みを考えてみるのに良い機会だった。たくさんの課題が私たちにはある。障がい者と共に、子どもと共に、地域と共にという宣教に島松らしく取り組むにはどういう道があるか。質に対して数ということで考えれば、どのような伝道をすれば仲間が増し加えられるか。子どもたちを育てていくにはどのようなことができるか。全国募金の今の状況にこれからどう対応していくか。こんな課題についても語り合い、それぞれの違いを知り、しかし何を共有することが大切か発見していく必要があると思う。
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今日のテキストは婚礼の席で足りなくなったぶどう酒を、イエスが水をぶどう酒に変えることによって与えたと言う奇跡物語が記されている。イエスに命じられた者は6つの水がめに「縁まで水を満たした」。できることを精一杯したところにイエスが働かれ奇跡が起こった。私たちは自力で水をぶどう酒に変えようと力んだり、その力がないことを嘆いたりする。しかし、与えられているものを精一杯出し合ったところに、イエスの力が働いて、水はぶどう酒に変わる。そんな出来事に出会うように、招かれている。「縁まで水を満たす」ことをなし、イエスの力が働くことに委ねていきたい。