「わたしは生きている」

1999年10月3日

ローマの信徒への手紙 14章7~12節

辻中徹也牧師

 

  • マザーテレサは名刺にこんな言葉を記していたそうだ。  『沈黙の果実は祈りである。   祈りの果実は信仰である。   信仰の果実は愛である。   愛の果実は奉仕である。   奉仕の果実は平和である。』 彼女の偉大な働きは沈黙から始まった。「私は生きている」と語られる神との出会いが一人一人の人間を 変え、方向づけ、社会を変えていく。

  • 「私は生きている」という神の語りかけを私たちは聖餐において与えられる。聖餐において主イエスを想い起こすとき、神が復活させられた主の命が、私たちを根底から生かす。聖餐に与った私たちは、新しい神の器として、キリストを頭とする体として、この世界への宣教へと招かれ、遣わされ、押し出されていく。

  • 私はクリスチャンホームに育った。自分にとっての教会は多面的で、教会が好きだと胸を張って言える出会いもあったが、一方で「理屈、退屈、窮屈」を強いられる場でもあった。「主のために生き、主のために死ぬ」(7節)と書かれた短冊を親が部屋に掛けたとき「もうあかん」と窮屈さに耐えかねた思い出がある。その私を救ってくれたのは「ブラザーサン、シスタームーン」というフランシスコの生涯を描いたイタリア映画だった。あなたはあなたのままでいい、神は愛していて下さる。そんなメッセージを与えられた。感動にふるえていた私は、「私は生きている」という神の語りかけを聞いていたのだと思う。

  • 今朝の箇所は、パウロが兄弟を裁く者に、「私は生きている」と言われる神こそが一切の基準であり根拠であると語る。人はどうであれ、今、ここに生きる「私」が主イエスによって、神によって、何を望み、いかに喜び、どこへ向かう勇気を与えられているのかを問われている。私たちは一切の罪や過ちを越えて、この問いに応える者でありたい。

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