「主はあなたを見守る方」

1999年8月29日

青柳 剛牧師

 

 14年前にもくも膜下出血で開頭手術を受け、多くの方の見守る中で殆ど後遺症も無く回復。以来数次に亘る重たい病を経験、担当医師が「幸運としか言えませんね」と言うほどでした。「今、自分は神様に生かされている」事を実感させられているところです。そこで、「自分の終わりの日」をどのように迎えるべきか考えさせられています。  私は当時横浜第一の繁華街の一角に生まれました。大正時代からの老舗でしたが父は家業を継がず、若くして結婚した母にとって家業の手伝いと子育ての中で威圧が強かったようです。母の父の葬儀に幼い弟を連れ高知に行ったきり帰って来ませんでした。その後父の仕事の関係で私たち父子は住居を転々と変わり、少年時代は殆ど「鍵っ子」でした。小学5年生の頃父は再婚、今にして思えば教養豊かな母だったと思いますが、私は母にとって扱いにくい子どもでした。瞼に焼きついた実母への思慕が心の底から抜けなかったのです。やがて日本は日支事変から太平洋戦争に突入。中学生になって援農・軍需工場への動員、そして敗戦と私の身辺はめまぐるしく変わり、私は自分の進路の再構築のために友人と教会の門を叩きました。12月に受洗しました。そんな時、街にいた多くの戦災孤児に目が留まり、その救済に何かできないかという関心から、すでに決まっていた進路を変え神学校に行く決心をしました。6年間の神学校での生活を終え、札幌北光教会の招聘を受け、さらにその翌年、北拓伝第二次指定を受けた島松開拓伝道者が求められ急遽私に白羽の矢が立って、当時の人口僅か1000人ほどの島松で本格的な開拓伝道を始めました。教勢拡大が安易に実現しない状況の中で何としても地域社会に土着した教会形成をしようと願い、農村青年の青年学級や市街地区の婦人を対象とした婦人学級の指導や社会福祉の充実のために社会福祉協議会の創設、人権擁護委員や教育委員長などと島松赴任5年目には活躍の場が広がりました。教会の役員から「先生、教会の仕事はどうなっているんですか?」と言われましたが、今の「いのちの電話」相談のような人生よろず相談など受けていました。ある日、一人の農村の青年が「先生!僕たちの仲人をしてください」と頼みに来たり、「先生!少しおがっているけど大根いらないか?」「どのくらいあるの?」「まあ千本くらいかな」「それだったら札幌に売りに行こう」。今でもこうした付き合いが続いています。私は伝道者としてその歩みはよたよたした者ですが、病気を含めて何度も人生の壁にぶつかり、悩み、時には途方に暮れたこともありました。でもそのような時に今日の聖句「わたしの助けはどこからくるのか。…主はあなたを見守る方…あなたの右にいます。」詩編121 がどんなに私を慰め、力を与えてくれたか。巡礼者のこの告白こそ私の告白 であり、祈りであり、生きる根拠であり、生きる勇気を与えられました。なお残された私の人生をこの告白、祈りをもって歩んで行きたいと思っています。

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