1999年 4月18日
マルコによる福音書16章9~18節
辻中徹也牧師
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30年ほど昔のヒット曲に「帰ってきた酔っぱらい」があります。飲酒運転で事故を起こし天国に行きますが、天国は「酒はうまいし、ねえちゃんはキレイだ」と言います。しかし、そこに神さまが現れ「もっとまじめにやれー」と地上に追い返されます。
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最近、天国というのは、この自分が今この瞬間、ここに生かされていると言うことだと想うようになりました。生きていると、辛さ、苦しみ、悲しみ、不安があります。自分を見つめると罪の深さに気づきます。そんな自分ですが、その自分にすで決着がついていることを聖書は示します。ヨハネの手紙Ⅰの4章10節「神が私達を愛して、私たちの罪をつぐなういけにえとして御子をおつかわしになりました。ここに愛があります。」神の愛を知るために主イエスと出会うように招かれています。主イエスを知るとき私たちは天国を生きる者とされるのです。
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今朝の箇所は、マルコ福音書が著された後に付け加えられた部分です。唐突な終わりに問題を感じた後の者が復活の主との出会いと世界宣教への派遣を付け加えたのです。マグダラのマリアとエマオへの途上にあった二人の弟子が復活の主と出会います。その知らせを受けた11人の弟子は「信じなかった」のです。そこへ復活の主は現れ彼らをとがめます。十字架の死を越えてイエスとの出会いを生き生きと生きたマリア、落胆と復活の知らせの驚きの中で復活の主に「心を燃やされた」二人の弟子。彼らの内には主の復活の命と喜びが宿っています。にもかかわらず不信仰で頑なであった弟子はとがめられたのです。
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今、ここで、あなたが生かされている瞬間、私も共にいる。いかなる罪も死も私たちを滅ぼすことはできない。私の内に神の愛とゆるしを見出し、信じなさい。そして「全世界へ行って、すべての造られたものに福音を述べ伝えなさい。」この福音を生きるように主イエスは招いておられます。私がどんな者であっても、どんな状況に置かれていたとしても、今、ここに生かされているところから福音を生きる者として生き始めることへ私たちは招かれています。