1999年2月14日
ヨブ記 12章2~10節
洞爺湖教会 村上浩康兄
ご存知の方も多いと思いますが、ぼくは家族と共に『いのちの園』というものをやっています。この4月が来れば『いのちの園』は丸4年を迎え、いよいよ5年目に入ろうとしてます。この『いのちの園』という名前には”そこに生きるすべてのいのちたちが何からも脅かされずにいきいきと生きることができる空間であるように”という願いが込められています。『いのちの園』では、畑を借りて農薬。化学肥料。空気を汚す恐れのある機械をなるべく使わずに野菜たちを育て、それを全国の友人。知人に送ったり、また今日の午後に予定されているような音楽活動をしながら、ぼくたちが様々ないのちたちとのやりとりの中で感じさせられていることを共有する時間を作っています。もともとは畑の仕事だけだった『いのちの園』でのぼくたちの活動を「農業をやっている」と言って下さる人もいるんですが、結局ぼくたちはさっき言った様な空間にする為には何が必要なのかを模索しているだけなんですね。畑の仕事や音楽活動はただその一部だと思っていただいたほうが、ぼくたちの大切にしようとしているものが逆に分かりやすいかも知れません。
どんないのちにとっても、食べ物は生きていく上でどうしても必要なもので、人間にとってもそれは間達いなくそうだと思うし、ぼくたちはお金のあるなしに関わらず安全な食べ物を食べる権利を誰もが平等に持っているんじゃないかと思うんです。それに野菜たちだってひとつのいのちだし、いのちに値段なんかつけられないと考えて、育てた野菜たちに値段をつけずに「それぞれの経済状態に合わせてお支払い下さい」と言って送っています。野菜たちと一緒にぼくたちいろんな思いがつたわればいいなァと思って、普通の産地直送と区別するために、そのやりとりをぼくたちは「分かち合い」と呼んでいます。もちろん今では音楽活動も含めて、ぼくたちが生きていく上でのすべてのいのちたちとの相互関係の総称として使っているつもりです。
『いのちの園』の野菜たちを友人や知人に分かち合ってもらう時に、支払われるものが特にお金である必要もないと思ってはいるんですが、ぼくたちが生活していく上でお金でないと精算できないものが今のところあるので、とりあえず今はお金と交換していただくことで、ぼくたちの生活の一部を支えていただいています。最初は「値段が決まっていないと買いにくい」と言う意見もあったんですが、様々なやりとりの中で”いのちにとっての本当の食べ物の価値”というものを一生懸命考えて下さる人たちに恵まれて、今ではそのことについて何か文句のある人は特にいないようです。買って下さる人たちによって野菜たちの値段が違うわけですが、ほとんどの人が町の相場よりも高い値段で買って下さっているんです。それはとてもありがたいことなんですが、残念なのはそれでも手作業の畑だけではぼくたち家族が生活していく収入にはならないということです。だからと言って、そのままでは無農薬や無化学肥料に付加価値をっけて高く売っている野菜たちと、結果的には変わらなくなってしまうので、上乗せして下さった分のお金を利用して、毎年年末に東京・名古屋・大阪と昨年から加わ った横浜の野宿労働者の炊き出しに「『いのちの園』に関わるみなさんから」ということで、そんなにたくさんの量ではないのですが野菜たちを送ってきました。「分かち合い」というのは、自分たちだけが潤うためのものではなく、自分の力の及ぶ範囲内で、支えられていることと支えることの両方を認識することだと考えます。とかくキリスト教の世界では「支えらていることに感謝」という言葉は聞いても、「支えることができて感謝」なんて言葉はあまり聞きません。謙虚っぽくなくて、イメージじゃないからでしょうか。でも簡単に考えれば、支えられている側があるってことは支える側があるってことで、ひとっのいのちの中にはその両方が同席しているとぼくたちは考えるのです。
昨年3月に、機会を与えられてぼくはべラルーシという国に行かせてもらいました。これはあのチェルノプイリ原発事故で被害を受けた人たちの支援のためで、北海道にある民間の支援団体に北海教区が関わっているところから出てきた話なんですが、一応その団体として計4名で行ってきました。ぼくはそれに参加するまで、チェルノプイリで原発事故があって相当ひどい被害があったということは知っていたのですが、その後の状況などにっいては全く分かっていませんでした。大体、チェルノブイリという場所が本当はウクライナって国にあって、風向きの関係でその北に位置するべラルーシのほうが被害が深刻だってこともその時に知ったくらいですから。でも後で聞いたら、そういう人は結構多いんだそうです。で、その時のべラルーシ渡航でぼくたちがとった支援の形というのは、前もってそれぞれの医療施設に支援額を伝えて、その中で買える範囲の今一番必要な物を医療施設から医薬品会社に注文しておいてもらい、その契約の時にお金を持って行って立ち会うというものでした。なんでそんな面倒臭い形をとったのかと言えば、経済マフィアによる支援物資の横流しを防止するためで、現在ひど いインフレ状態にあるべラル-シは、その関係で経済マフィアが多いんです。べラルーシでは、都市にある大きな病院2件と放射能被害の最前線にある小さな診療所2件の計4件をぼくたちは訪れました。施設自体も大きく、様々な国からの支援を受けているように見える大きな病院よりもむしろ、本当は最も支援を必要としているのに頻繁には手が差し延べられない実情の中に置かれている最前線の診療所に行った時のほうがぼくにとっては多くの学ぴがあったように思います。特にその診療所に滞在中、許可を得て立ち入り禁止区域に入ってチェルノプイリ原発をこの目で見てしまった時のことです。立ち入り禁止区域というのは放射能がもうヤバいくらい残っているんでそうなっているわけですが、放射能ですから、ここに柵があって向こうはヤバくてこっちは大丈夫とかそういう話ではないんです。一応チェルノブイリ原発から30km範囲が立ち入り禁止となっているみたいですが、診療所の人は「この町はチェルンブイリから27kmだ」って言っていましたから、実際それもしっかりした測定がされていないのだと思いました。少し話がそれましたが、その立ち入り禁止区域の中に放射性生物保護区というのがあ って、そこで生息している様々な生物への放射能の影響やその体内にどれだけ放射能が残っているのかなどを研究している機関があるんですね。もちろんその機関自体は安全圏にあります。その研究所の副所長さんの案内で、ぼくたちは立ち入り禁止区域内を回りました。チェルノブイリ原発の他にも、かつてはここに村があったというような場所などいろいろ見て回ったのですが、ぼくには行く道での副所長さんの話がとても心に残りました。彼の話は、ぼくたちの目的とはまるで関係のないようなビーバーのダムやオオカミの賢さについて、それから道が悪いのはイノシシのせいだとか、そういう話がほとんどでしたが、それらの話でぼくは彼がどんなにかこの土地を愛している事を理解した気がしました。そしてこれは原発保有国には発表されなかったことなのですが、1992年にべラルーシで380ha、ウクライナで1,000haの汚染地の森が燃える火災が発生して、その灰に含まれた放射能が再ぴ辺りの村を汚染したことがあったそうです。そして、焼けたその土地の放射能を計ったら森があった時の何十倍もの数値だったという話を聞いた時、ぼくは深い衝撃を受けました。どういうことかというと、森の木々 が多量の放射能を体内にとどめていたということです。人間はその土地を捨てる事もできます。どこへも行けない彼らが、人間のした事の被害を一身に受けながら、尚もその土地の外へ汚染が広がるのを防ごうとしたのではないかとぼくには思えてならなかったのです。
原子力発電所のようにその危険性がある程度はっきりしていても、放射能そのものが目に見えないので、危険性よりも便利さを優先させてしまう甘さが人間にはあります。先進国と呼ばれる国々が「これは人間にとって必要だ」と言ってやっていることが、いのちそのものを脅かしているという図式がこの星にはたくさんあります。しかも大抵の場合、脅かされるのはその便利にあやかっている人間から一番縁遠いいのちたちからということになっている気がします。人間の世界だけを見てもそうです。
先程のチェルノプイリ原発の事故も、そこに生きる動植物たちへの被害はもとより、被害を受けた人たちの多くは馬車にランプというおおよそ電気とは無縁な生活をしていたのだというのですから、溜め息も出ません。何より、そういう事実を知りながら原子力発電所からも供給されているであろう電気に振り回された生活をしているぼく自身を許せない気になります。人間が科学の大きな進歩によってその生活に潤いを持つことができても、実際にそれで潤っているのはほんのひと握りの人間だけであって、この星全体が潤うにはほど遠い感じがします。
神様は様々なものを与えてくれます。ぼくたちクリスチャンは、人間は神様が特別に作った生きものなので、他のどの生きものたちよりも優れていて、今この星で人間がこれだけ進歩してているのは、神様が人間にそれだけたくさんの特別な能力を与えてくれているからだ、と考えがちです。でもぼくはその考えが間違っているように思えてなりません。
人間が特別だと思っているその能力を駆使して開発したものには、必ず犠牲を伴うような欠陥があります。その欠陥を補うために新しいものを開発し、その繰り返しによって人間はどんどん進歩しているという人もいますが、そこには大きな落とし穴があると思うのです。
なぜなら、その進歩に伴う犠牲は減るどころか増加の一途をたどっているからです。人間は特別だという意識が、人間は完全ではないという事実を受け入れ難くしていて、そのために傷つき苦しめられるものがあっても、その犠牲すら正当化してしまっているのではないでしょうか。それに比べて人間以外の生きものたちの世界にはそんな理不尽な犠牲はありません。それらの生きものたちは、人間の目にはあたかも、特別な能力を持たないがために、ただ与えられたいのちを次の世代を残すだけに費やしているかのように映りますが、彼らは自らの能力の限界を認識した上でその純粋な生き方を選択しているのかも知れない、とぼくは思うのです。
神様はいつもぼくたちに様々な能力を与えると同時に、それを用いるかどうかの”選択の自由”というものも与えているとぼくは考えています。例えばそれは、ウランから原子力を作り出す能力を与えるのと同時に、それをどう使うかもしくは使わないかの選択を与えているということです。
現在では、原子力に加えクローンや遺伝子操作など、人間の領域を踏み外しているようにも思えることが様々ありますが、基本的にいのちはそのどれもがそれ自身の意思とは関係なく神様から与えられ、そして奪われるものです。”望まれないいのち”なんて言われ方もありますが、それはあくまでその誕生に携わる側の勝手な言い分であって、生まれてくるほうには何の疑いもないわけです。だからこそ、生まれてきたいのちの中で必要とされていないいのちはないだろうとぼくは考えます。
必要とされているからこそ、そこにいのちが与えられるのだと思うし、そしてまたそれぞれに何か役割みたいなものが与えられているに違いないと思うんです。人間中心に考えれば「不必要だ」と思われるいのちでも、他の何かにとってはもうなくてはならない存在なんだってことが絶対あると思うんですよね。人間は人間としての、動物は動物としての、植物は植物としての、昆虫は昆虫としての、微生物は微生物としての役割をちゃんと持って生まれてきてるはずだとぼくは信じています。そしてそれぞれの世界の中でもきっと、そのひとつひとつに役割があり、それを果たすことでちゃんと支え合って生きていけるようになっているんじゃないかなと思います。神様が与えてくれるものの中で、ただひとつだけ間違いなく選択の余地のないものがいのちである、という信念が『いのちの園』の根源です。人間以外の純粋に生きるいのちたちがなるべく多く存在しているところに身を置くことで、彼らの発している目に見えず耳に聞こえないメッセージを取り込むことができるのではないかと考えて、ぼくたちはまず畑の仕事を選択したのでした。周りのいのちたちを見るにつけ、どう考えても人間が一番そ の役割を見失っているような気がしますので、ぼくはぼくといういのちを生きていく上での責任を果たすために、やはりぼく自身の役割というものをもっと探求しなくてはいけないと思っています。