1999年1月17日
マタイ福音書4章18~22節
説教者 辻中徹也牧師
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先週の水曜日、キリスト教入門の集い「ほっとタイム」の新年会を行いました。24名の老若男女、障がいのある人もない人も、マージャンとバザー準備を楽しみました。かつて滝口孝牧師が提唱された「障がい者と共にある教会形成」の実現という幻、「祭りを共に」すなわちだれもが共に楽しむという精神を受け継ぐ活動をほっとタイムが果たしているんじゃないかと思います。
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この箇所は、ペトロを初めとする漁師であった者たちが、イエスの呼びかけ「私についてきなさい。人間をとる漁師にしよう」と言う言葉に、網を捨て、船を捨て、家族を捨てて従ったという事が描かれています。「人間をとる漁師」とは一体どういう意味なのでしょう。この記事の前の所に、暗闇に住む者が「大きな光」を見た、死の陰の地に住む者に「光が射し込んだ」、とあります。「人間をとる」ということは、この大きな光を共に仰ぐということではないでしょうか。
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先日、Y牧師の説教集が届きました。Y牧師は、癌の宣告を受け苦しい闘病生活の中にあって、どんなときにも神さまからの光を受け、福音の明るさに生かされた思いを説教集という形で残したいと話され、この説教集がうまれました。その中で「視線が神に向かっていると言うことは、言いかえますと、神さまからの光を、神からの愛を受け止める姿勢をもっているということであります。つまり、キリストに向かって進みゆく人間は、キリストの光を受けると言うことであります。」と述べられ、クリスチャンの標識は「困難に密着してしまわない広さ、軽さ、福音的明るさ、キリストの光を受けて生かされているということ」だと記しておられます。
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多くの人を得るために、共に主イエスの光を仰ぐ明るさをもって宣教の歩みを担って歩みたいのです。