1998年12月20日
ヨハネ福音書3章16節
辻中徹也牧師
- イエスさまは立派な宮殿で兵士たちに守られれてお生まれになりませんでした。
馬小屋の飼い葉桶という、誰でもがありのままで出かけていけばお会いすることのできる低い場所に生まれて下さい ました。それはすべての人の救いとなって下さったイエスさまに相応しい場所であったことをページェントによって あらためて気付かされました。
- このクリスマスに私たちには大きな喜びが与えられました。本間ミヤエさんの受洗です。
本間さんが、洗礼を受けようと言う気持をお連れ合いの浩気さんに伝えられたとき「そんな気持で洗礼を受けてもい いのか?洗礼と言えばヤクザが入れ墨をするようなものだろう」と言われたそうです。きっと、励ましの言葉だった のだと思います。
- パウロは「わたしは、イエスの焼き印を身に受けている」と記しました。それほどに自分はイエスさまの僕である、イエスさまのものなのだ、と言い表したのです。けれども、それは入れ墨を入れたり、焼き印を押したりするよう な「痛み」を伴う覚悟を神さまが求められているというよりも、もっと大きな痛みと犠牲をともなう「愛」もってを 神さまがまず、すでに私たちに臨んで下さったからなのです。パウロはその愛を知ったのです。
- 神さまはイエスさまという独り子を私たちにプレゼントして下さいました。愛というものが目に見える形で私の世界に入ってきたのです。イエスさまによって、私たちは「神さまがこの私を愛してくださった」と言うことを知るこ とができます。「愛してくださった」 神さまに応えて歩むものとならせていただきましょう。